経営者やビジネスパーソンといった「実践者」が他者に知を開き、巡らせ、結び合わせるための方法論を解説する本連載。前々回では一人ひとりが自身の知を深堀りする、「探究」を確実に前に進めるために必要な「問いの立て方」について説明しました。
『知的複眼思考法』に学ぶ、良い探究の為の「問い」の立て方:連載「知を開き、巡らせ、結び合わせるための知の方法論」第2回
今回の記事は掘り下げる対象としての「問い」が立て終わり、さっそく探究を始めようと思った矢先に起きがちな「『問い』を立てた後に急に勢いを失って頓挫してしまう」というエラーの回避を目的とします。
このエラーの背後にある課題としては、以下ふたつが挙げられます。
・「何をもって探究が進んだといえるか」がそもそも不明である
・「テーマを立てた後に何をすれば探究が始動するのか」についてのイメージも中々立たない
今回の記事では探究を始動させる具体的なポイントは「自分の日常を記録し続ける」ことにあると主張します。つまり探究といわれて特別に何か思い切ったことをする必要はなく、まずもって「探究上の問い」に関連する自分自身の日常を少しずつ、継続的に記録していくことから始めるのが重要です。そのようにして毎日の「記録」の積み重ねを繰り返していくうちに着実に「問いに答える」ための材料(経験知)が蓄えられていきます。
とはいっても実際の探究の実例を見なければなかなかイメージが湧かないと思います。そこで今回の記事では、筆者(西村)自身が大学院2年次に取り組んだ「人間がある一つの料理(メニュー)を熟達したと自認できるようになるまでの学習過程とはどういうものか」という問いに解答しようと挑んだ探究の実例を皆さんにご覧いただきます。具体的な探究の実例を見ることによって、自分だったらどのような探究ができそうか、どのように進めることができそうかと想いを巡らせていただく機会になりましたら幸いです。
西村歩(にしむら・あゆむ)
株式会社MIMIGURIのリサーチャー(企業専属研究職)。東京大学大学院情報学環客員研究員。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了。科学哲学・科学社会学を専門とし、修士課程ではデザイン学における実践研究方法論に関する調査に従事。現在はデザインファームに内在する実践知の形式知化を目的とした「実践知型研究組織」の概念構築に従事している。電子情報通信学会HCGシンポジウム2020にて「学生優秀インタラクティブ発表賞」、電子情報通信学会メディアエクスペリエンス・バーチャル環境基礎研究会にて「MVE賞」を受賞。
経験からの知識生産
実は筆者はナポリタン職人であることで有名です──近しい友人や大学院の先生からですが。修士論文を書くことに詰まっていた2021年8月から、気づいたら2日に1回はナポリタンをつくり続けていました。総試行回数は約120回。ナポリタンをつくって食べ続けたら高血圧になったことから一時期停止しましたが、とはいえ最近は友人に頼まれてナポリタンをつくりに行くこともあります。
ナポリタンづくりは私にとっての何気ないルーティーンでした。しかしこのナポリタンづくりを繰り返すたびにうまく言葉にできないけども自分自身が変化し続けている感覚があり、沸々とその変化していく自分自身がおもしろくなり、誰かに共感して貰いたいと思うようになっていました。
そんな矢先、ナポリタンをつくり始めて3か月が経過した2021年11月ごろに、慶應SFCの大学院授業「アカデミックプロジェクト経験の学」を受講していた際、授業メンターである慶應義塾大学環境情報学部・ランドスケープデザイナーの石川初先生、そして同大学院生の松本夕折さんとディスカッションしていた際に「西村君が普段やっていることを記録して言語化してみたらどうだろう」と投げかけていただいたことを機に、ナポリタンづくりの一回一回を記録するようになりました。実は石川先生も博士論文『ランドスケープ思考 : 思考法としての「ランドスケープ」の再定義』の中で、ランドスケープデザイナーとしてのご自身の一人称的視点の言語化を通じて、「ランドスケープ思考」の生成に取り組まれた経験のある方でした(石川 2020)。
私自身もそれに倣って、これまでの記憶で残っている過去のナポリタンの制作過程は文章化し(特に第一回目・第二回目は鮮明に残っており)、毎回のナポリタン制作過程を動画で記録を撮ったり日記を書いたりするようになりました。その日記は完成物のナポリタンの反省はもちろんですが、自分が麺やケチャップという「素材」についてどのように考えているか、道具に対してどのような一人称的な主観を持っているかについても書いています。例えばケチャップの加熱による変色については色弱な自分では捉えにくいが、変色時に空気中に飛んだ酸味を手で扇いでつかんでいるという気づきも得られました。また以下はナポリタンにアレンジを加えていくことによって「ナポリタンであること」とはどういうことかが問い直される気づきが得られる過程を図にしたものです。
ナポリタンをつくり続ける経験で「ナポリタンであること」とは
どういうことかが問い直されるプロセスを記述したもの
最初はそんな主観的な記録で大丈夫なのか心配になりました。というのも自分は気分屋なので心が左右されがちで、毎日記録をしてもそこまで面白いデータが取得できるとは思っていなかったからです。しかし記録を続けていく内に、自分に変化が少しずつ起きていることに気づきます。それは上で述べたような技術としてのナポリタンの上達過程だけではありません。自分自身の中に「ナポリタンの探究者」としての自覚が芽生え始めるのです。
本記事では実際に私が「人間がある一つの料理(メニュー)を熟達したと自認できるようになるまでの学習過程とはどういうものか」という探究上の問いについて、半年をかけて約120回のナポリタンづくりから得られた考えを皆さんに共有します。
探究:「人間がある一つの料理(メニュー)を熟達したと自認できるようになるまでの学習過程とはどういうものか」
(1)自分がナポリタンをつくり始めた理由
自分がナポリタンをつくり始めたのは何気ない理由です。友人の家に遊びに行った際に、「お腹すいてるでしょ、ちょっと待ってて」と言われてキッチンに向かった彼は、ものの15分でナポリタンをつくってきたのです。来客した友人にさらっとナポリタンをつくれる手際の良さやスマートさ、そして「ナポリタンといえばあの味!」ともいえる素朴な美味しさに感激し、自分もナポリタンを極めたいと思うに至りました。
とはいえ中々実行に移すのは難しいもの。「ナポリタンを極めたい!」という衝動が湧いてから一か月後、YouTubeでサジェストされて偶然ナポリタンのつくり方に関する動画に遭遇し、早速そのレシピを見てナポリタンをつくり始めました(試行一回目)。まずは動画の内容を見て大事なポイントを学習します。「ケチャップは火にかけて酸味を飛ばすのが味の決め手になる」などの基本的なナポリタンのつくり方をこの動画で学び、レシピを再現しようとすることが一回目の目標でした。
(2)レシピ通りにつくれても「完成感」が掴めない
ところがレシピ通りにつくろうと思ったものの、思いもよらぬ事態が起きました。火をかけたら料理はスピード勝負になります。しかし今回は野菜やウィンナーを火にかけながら、レシピを動画で確認するという無駄な作業が入ってしまうため、ピーマンやウィンナーが焦げついてしまいました。折角究極のナポリタンが食べられると思ったのに、不完全なナポリタンができてしまいショックを受けました。一回目は不完全燃焼におわりました。
完璧なナポリタンを食べたいと思って翌日に、再び動画を見返して、今度はきちんと内容を暗記した上で二回目のナポリタンをつくりはじめました。すると前日に一度つくってみたからか、身体が制作工程を大体憶えているのです。その結果もあってレシピを殆ど見ずに、あの鮮やかなオレンジ色のナポリタンが出来上がりました。いよいよ食べられる完全体のナポリタン。ワクワクしながら口に運びます。しかし、一回目のナポリタンと味がそこまで変わりません。その日ほどに「完成形とは何か」を考えた日はありません。
完成だと思っていたのに全然完成に辿り着かない。ではどの要素が美味しくなるのか、究極のナポリタンになるかが掴めない。なんて料理って奥深いんだ!と思いました。そのモヤモヤした経験から「人間がある一つの料理(メニュー)を熟達したと自認できるようになるまでの学習過程とはどういうものか」という問いを設定し、ナポリタンをつくり続けるという探究を開始したのです。
(3)何に注意すると失敗しなくなるかが掴めるようになる
その後、三回目・四回目とつくり続けていく中で分かってきたことがありました。麵の茹で時間を誤ると「にゅうめん」らしき食感になって美味しさが失われる。またケチャップの炒め方が不十分だと酸味が残って、酸っぱいナポリタンになってしまい、ナポリタン特有のケチャップの甘味があまり感じられない。ゆえにナポリタンの味を究極的に規定するのは麺の状態とケチャップの酸味であり、これらの二つにミスがないように注意を傾けることが大切ではないかと気づきました。
反芻するに、一回目と二回目のナポリタンの大きな違いは、ピーマンとウィンナーの工程にミスがあるかないかでした。でも実際に出来上がったナポリタンの味は素人目にはそこまで変わるわけではありませんでした。この経験を踏まえると「ピーマンとウィンナーの焦げ付きは全体の味にそこまで大きな影響を与えないのではないか」という仮説が生まれました(ナポリタン職人の方で「それは違う!」という方がいらっしゃいましたら、ここまでで自分は人生二回目のナポリタンづくりであるということをご承知ください)。
これはつまり同じメニューをつくり続けていく内に、自分の脳内で「何に注意すべきなのか」「何に注意しなくても大丈夫なのか」が整理されていくのです。その過程の中で、「ウィンナーやピーマンを焦がす」のような凡ミスも減っていき、安定して同じ味のナポリタンがつくれるようになっていきます。つまり料理が上達するという一つの要素に、「注意すべきことと、しないで良いことの区別が洗練される」ことが挙げられると感じました。この過程を振り返ると、料理の上達とは統計学っぽいというイメージがわきました。つまりナポリタンの美味しさという値を高めるために他の変数(ケチャップ・麺・具材など)との関係が掴めるようになっていきます。すなわち、この当時ナポリタンの美味しさを決定的に左右する変数はケチャップと麺であるということが体感的に掴めるようになってきたのです。
(4)ミスが減るようになると味覚への探究心が湧き、オリジナルを求め始める
さて、味が安定してくるようになり、ミスが減ると今度は味覚への探究心が湧いてきます。つまり自分オリジナルのナポリタンはどのようにつくることができるのか、与えられたメニューを改変して自分独自の味を追究したいと考えるようになってきました。特に大きな改良点を二つ紹介します。一つは麺をモチモチさせるために冷蔵庫で冷やすと、麺をタッパーから取り出した時に「うどん」のような状態になってブチブチ切れてしまうことをどのように防ぐか、二つは麺にケチャップをどのように効果的に絡ませるかという問題でした。
前者の課題については、「冷えて一定時間麺が放置されるということが重要なのではないか」という考えのもと、「茹で上がった麺を氷水で冷やす」という方法をとることで冷蔵庫で冷やさなくともモチモチ感は維持されました。この方法はコンビニチェーンのナポリタン製造工程でも同じような方法をとっていると調べてわかりました。
また後者の課題は「具材を炒める際に粘度を高めるためにプロセスチーズを和えることでケチャップとの絡みがよくなる」という気づきがありました。つまりプロセスチーズを和えて具材を炒めることで、チーズがとけて粘り気が出ます。その粘り気を増やすために片栗粉なども試しましたが、粘り気だけで考えた場合一番良かったのはプロセスチーズを和えることでした。
これらの工程は自分にとっての最善のナポリタンメニューを微細に修正していく、まさに理科の実験に近い過程です。僕はこの過程を「チューニング」と呼んでいます。この時期から麺の種類についても追究し、市販のパスタ麺のみならずソフト麺や生麺なども試すようになりました。レシピ通りのつくり方を一度解体し、素材や製作工程を見直すことによって自分にとって最高のナポリタンのレシピを更新していく試みと位置づけられます。
(5)本当は欲しい材料がないというトラブルに創造性が発揮される
ただ実の所、ナポリタンの破壊的な進化が生み出されたのはチューニングとは異なる過程においてでした。ある日いつものようにナポリタンをつくろうと冷蔵庫を見ていると、ピーマンが無かったのです。その日は実家にいたのですが、母が父にチンジャオロースをつくっており、大量にピーマンを使ったため残りがないようでした。ピーマンはナポリタンの食感を演出する縁の下のような役割だと私の中で整理されていたので、無いとなかなか困ります。しかしその時、冷蔵庫の中にニンジンとタケノコがあることに気付きました。確かにニンジンは「ニンジンのケチャップ煮」というメニューがあるほどにケチャップにも合うし、タケノコもコリコリとした食感のアクセントを演出します。そこでピーマンの代わりにこの二つを刻んで入れてみたら、いつもよりもほんのり甘い、まるで煮物のような「より野菜の甘みが感じられるナポリタン」が完成しました。
別の日にはベーコンやウィンナーを切らしてしまっている日がありました。その時たまたま冷蔵庫の中に挽肉があったので、代用品として使うことにしました。ただし挽肉を代わりに入れるだけでは芸がないので、挽肉を活かすためにニンニクと黒胡椒で香り付けを行ったところ、肉肉しさが残る、挽肉とケチャップのスパゲッティが完成しました。ただ思ったよりも挽肉の主張が強く、ベーコンやウィンナーの代替物としてではなく、ボロネーゼ風なのか何なのか──とにかく、ナポリタンとは似て非なるパスタが出来上がっていました。この完成物をじっくりと食べて眺めながら「果たしてこれはナポリタンと言ってよいのだろうか」というせめぎ合いが私の中で起きました。他にも例えば肉系の代わりに前日の夕食で余った豚の角煮を入れたり、タマネギの代わりに白ネギを入れたり、ピーマンのかわりにキャベツを入れてみたこともあります。
こうした「食材の不足」から生ずるナポリタンの進化と概念の拡張は、レヴィストロースが『野生の思考』の「ブリコラージュ」を想起させると考えました。ありあわせの道具を用いて目の前の課題を解決していくブリコラージュは、実は我々にとっても「食材がない」というピンチの時に、冷蔵庫の中でありあわせのニンジン、タケノコ、かまぼこ、挽肉といった材料(道具)を選ぶことで乗り越えたように身近に起こりうるものと想定されます。そしてこのような「ありあわせ」の食材を用いる過程の中で、ナポリタンのレパートリーや可能性が拡張されていくものと考えられます。その意味では台所に立つ状況の自分はまさに「野性の課題解決者」だったのかもしれません。
「ブリコラージュ」についてはこちらの動画でも詳細に解説しています。
ブリコラージュ
「料理を極めていく学習過程の四段階」
自分の約120回のナポリタンづくりの試行錯誤から、自分は「料理を極めていく学習過程」は次の四段階なのではないかとまとめることができました。なおこの四段階にまとめあげる上では石川先生と松本さんに壁打ち(ディスカッション)をお願いしました。
①レシピから行為へ──身体化の過程
最初はレシピを見ながら始めますが、レシピを見るという行為がノイズ(隠れた変数)となってレシピ通りつくるのは難しいものです。そこで本当の意味で「レシピ通り」つくれるのは、自分の身体感覚で「次に何をすれば良いか」が分かるようになってからです。「次に何をすれば良いか分かる」と、キッチンが自分の体に吸い付いているかのような感覚が生まれます。つまりキッチンのどこに何があるかが分かり、全体的な時間間隔を調整しながら所定の場所から具材を用意したりでき、モタモタせずにレシピを再現できるようになります。
②組み合わせと役割の把握──構造化の過程
レシピ通りにつくれるようになると、今つくっている料理の全体像が捉えられるようになります。何が味覚を規定しているのか、何を間違ったら取り返しがつかなくなるのかが手に取るように分かるようになります。ナポリタンの場合、ケチャップを炒める過程にミスが生じることがどれだけ最終結果の違いを生み出すかが分かるようになりました。一方でピーマンやウィンナーの焦げは挽回できることも分かったので、特段気にしなくなりました。このように<全体結果>に対する<部分活動>の重要性をそれぞれ対比可能になることで、「ナポリタンをつくる」という行為が洗練されていきます。
③チューニング──実験の過程
レシピ通りつくれるようになると、レシピに記述されている内容を自分の思うように変化させていく理科の実験のような手続き、すなわちチューニングが始まります。この実践はまるで「一部分(独立変数)」を変化させると「全体(従属変数)」がどのような変化があるのかを見ていくような科学的な手続きです。上で述べたチューニングの例の他にも、「ウィンナーのカットの仕方」が独立変数にあたりました。そして【ナポリタンの出来栄え】という値を最大化するにはどのような方法を取れば良いのかを模索してチューニングしました。
④ブリコラージュ──創造の過程
食材不足等により代替食材を用いることによる新たな料理の創造過程です。食材不足などのアクシデントが起きた際に別の食材を試し、その部分活動の大きな変化に合わせて別の調理法や別の食材を試します。これによりレシピには載ってない新たな料理が創造され、レパートリーが増えることとなります。またこの創造過程により、制作者自身のうちに「ナポリタンとはこういうものである」という既存概念がリフレーミングされていく効用も期待されるのです。
これらの四段階はナポリタンづくりのみならず、何かの料理を極める際にも、また料理以外に具体的な何らかの作業を修練させていく過程はどのように行われるのかを説明可能としたモデルなのではないかと推察します。
自己の経験から知を抽出し、探究を前に進める4つのコツ
大学院時代の授業の中で、他の方の「記録」に触れることも多かったのですが、自分自身がナポリタンを題材に研究したこと、その授業での教えから学び取った「記録のコツ」を再構成したところ以下の4点になりました。
(1)持続的・反復的に記録をとりつづける
第一に、持続的に反復的に記録をとりつづけることです。例えば私のナポリタンの記録の中でも、①ー④の成熟過程は1度ナポリタンをつくるだけで気づくことができなかったものでした。しかしその習慣を反復的、持続的にとりつづけ、俯瞰的に眺めていくことで「人間が料理を上達する過程とはどのようなプロセスによって為されるのか」というモヤモヤとしていた問いについて段々と腑に落ちる論理が得られて新しい知見に到達することができました。ナポリタンに限らず、仕事に関係する記録をとっていこうと考える方についても、1度のケースを大きく記録するのではなく、毎日・毎回を少しでもいいので連続的に記録していく習慣を持つと良いのではないかと考えます。
(2)リッチな情報媒体での記録も残しておく
第二に、なるべくリッチな情報媒体での記録も残しておくということです。自分の体感を憶えておくことも大事ですが、その当時の記憶を思い出す上では、実践行為をしている時の自分の動画や写真なども残しておくと良いでしょう。例えば私の場合は完成したナポリタンを写真で撮影したり、ナポリタンをつくっている自分についてビデオ撮影をしたりしていました。特にビデオでは「ピーマンがない」時に、数秒冷蔵庫の前で「マジか」と小声を発しながら立ち止まり、数秒後に冷蔵庫を隅から隅まで代用品を探している、創造力が放出されている時のワクワクしている自分の姿が映っています。結果的に自己の体感は言語化されるのですが、写真や動画などのメディアはその言語化を支える材料になるはずです。
(3)客観化された指標に頼らず、ことばで自己を描写していく
第三は客観的な指標に頼らないことです。具体的には数値を用いた評価(5段階や10段階など)が挙げられますが、例えばナポリタンの出来栄えを数値評価してしまうと、その数値につい思考が流されてしまい、細やかな内心での気づきについての記述がしづらくなってしまいます。数値は全体を「ざっくり」と評価することに向いていますが、主観性を描写するために用いるのには中々向いていないのです。その代わりに「ことば」を用いて記述する、すなわち「作文」するという方法が有効です。諏訪(2005)は自己の認知過程を認知する手法としての「メタ認知的言語化」を紹介しており、その過程を(1)認知過程を身体で知覚すること、(2)体感を言語化すること(この二段階目を「メタ認知的言語化」と呼んでいる)に分けて説明しています。また瀧(2021)は、デザイナーが自分の内側で生成された実践知を他者に共有する手段として「体験作文」を用いていますが、この「体験作文」も諏訪のいう「メタ認知言語化」の一種にあたると考えられます。
(4)自分自身の捉え方の変化にも細やかに反応していく
第四に「自分自身の捉え方の変化」にも細かく反応していくことです。例えば2022年2月にとあるサーファーショップを訪れた時のこと。この店はサーファーショップでありながら、店主がつくるナポリタンが美味しい店として有名です。たまたま友人と食べに行ったときに、友人との話をよそに、自分は無意識的にその店主がつくるナポリタンの具材の種類、投入時間、火加減、茹で時間などをじっくりと観察していることに気づきました。友人も真剣な顔でフライパンを眺めている自分の姿を見て、意識的に黙ったということだから驚きです。これは私自身が「食べる側」ではなく「職人側」のモードに入っており、なぜその味覚が美味しいとされているのかを「分かりたい」というスイッチが入っていることを自覚したのでした。これらについては、ナポリタン日記に「自分自身の変化」としてメモしています。このように日々の自分自身を「記録」するという行為を通じて、自己認識の変容が見られる場合もあります。「記録」をしていく内に、自分はどのような視点をもって実践に励んでいて、しかもその自分は大きく変化をし続けている存在であるかということに気づくことができ、自分自身の専門性や技能が拡張されていることも掴めるようになるはずです。
探究は組織に「開き、巡らす」ことによって「結び合わさる」
以上、記事は少し長く、情熱的なものとなってしまいましたが、もっとも伝えたいことは「知的生産は自分の主観的な感覚の記述からはじめてみると良いのではないか」ということです。そして自分の実践的行為における主観的経験のつぶさな記録を貯めていく過程で、当初設定していた「問い」に答えるための経験が蓄積されるようになり、ゆくゆくは「腑に落ちる」という形で探究は一つの答えに到達していくわけです。
ここからは余談になりますが、前回の記事では、探究で得られた知見を「独りよがり」にせずに活用していく上では「『潜在的関心層』とは誰なのかを設定」した上で、自分が探究活動を通して生み出す知識が誰に届き、どのように役立てられるのかを予め構想しておくことが重要であると論じました。
知的探究を「独りよがり」にしないために。その成果を理解・活用してもらうためのフレームワーク:連載「知を開き、巡らせ、結び合わせるための知の方法論」第3回
今回の私のナポリタンを通じた探究上の問いは「人間がある一つの料理(メニュー)を熟達したと自認できるようになるまでの学習過程とはどういうものか」でした。しかし私はこのナポリタン探究の潜在的関心層を「料理を上達したい人」に留まらず、「特定の技能を身につけ上達したいと思う方」にあると再設定しました。それにより上で述べた「料理を極めていく学習過程の四段階」は、現在私がMIMIGURIのナレッジマネジメントに関わる部門に所属し、特定の技能を身につけて上達したいと考えられている方の発達段階を見立ててサポートする方法を考えたり、熟達した先の未来像を描いていく上でも高い頻度で登場し、役に立っています。
そのように考えると、非常に個人的で社外で取り組んだこのナポリタンの探究も、社内に「知を開き、巡らす」ことによって「組織に結び合わさる」のだと感じています。ぜひ皆さんも日々の探究を通して得られた知見は実践に活かしたり、組織に開くことにも挑戦してみてはいかがでしょうか。
私の情熱を味わっていただきありがとうございました。
参考文献
石川初(2020) 「ランドスケープ思考 : 思考法としての「ランドスケープ」の再定義」,慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科博士論文.
諏訪正樹(2005)「身体知獲得のツールとしてのメタ認知的言語化」,人工知能,20 巻 5 号 p. 525-532.
瀧知惠美(2021)「デザイン活動の省察における体験作文の有用性」,日本デザイン学会研究発表大会概要集,1D-04.