9/5(火)に開催した「組織における「身体性」を再考する」のアーカイブ動画です。今回のDIGTIONARYでは、「身体性」をテーマに据え、現象学の切り口を通じて、私たちの中で何が起きているのか、どのように「身体性」と向き合っていくべきなのかを深掘りしていきます。
「組織における「身体性」を再考する」のチャプター
02:57 チェックイン:最近、感動したのはいつですか?
09:21 今日のテーマは「身体性」
16:41 志向性という概念が鍵を握る
26:44 改めて志向性とは
37:57 志向性と綜合、意識と運動の関係性
42:24 感動という現象は、不随意運動である
56:04 そもそも私達はいつから自らの身体を認識できるようになるのか
1:04:31 陥りがちな2つの落とし穴
「組織における「身体性」を再考する」のポイント
- 顧客に対して価値を提供しようとするとき、顧客価値の構造には、期待価値、基本価値といった顕在的に期待された価値や最低限の価値に加えて、未知価値(期待や願望を超えた驚きや感動を伴う価値)、願望価値(潜在的に存在した願いや望みとしての価値)がある。
- 未知価値や願望価値に向き合うためには、そもそも感動とはなにかという問いに向き合う必要がある、と小田は語る。わたしたちはなぜ「感動」し、なぜ一緒に「感動」するのか、「感動させる」ということは可能なのだろうか。
- 小田は、感動とは私達の感覚を通じて心が動く現象あるいは心の動きを感じることであり、外からやってきて身体に現れる現象だと語る。そのため、感動が生まれるような価値を実現するには、感覚という身体性に向き合わなければならないと指摘する。そこで今回は、野中 郁次郎と山口 一郎による『直観の経営「共感の哲学」で読み解く動態経営論』という書籍を中心に深掘りする。
- そもそも身体性とはなんだろうか?身体性とは認知主体の内外で生じる相互作用であり、身体があるからこそ環境の変化を感じ、環境に変化をもたらすことができると小田は述べる。
- 動かないエスカレーターを歩くときに感じる違和感を例に取り、エスカレーターと階段に対して私達は異なる志向性をもっていると小田は述べる。現象学においては、心と身体は意識の有無に関わらず「何かに向かって」働いており、知覚対象に心身のアンテナが意識の有無に関わらず向けられていることを志向性と表す。
- 意識を向けながら意図的に体を動かすとき、そこには能動的志向性が生じ、次第に意識せず体が動かせるようになると受動的志向性へとシフトしていく。エスカレーターが止まっていると、普段の受動的志向性ではなく能動的志向性を働かせることになるため体に違和感が生じると指摘する。
- このように、日々を生きる中で身体を介して外との間に生じる様々な能動的志向性と受動的志向性の中で相互作用を繰り広げている。こうした志向性はバラバラに働いているわけではなく、まとまりを形成し、能動的綜合、受動的綜合となる。随意運動は意識が先にあり、知覚や運動があとにあるが、受動的綜合である不随意運動はそれが逆になる。イチローがルーティンを大事にしていたのは、受動的志向性に正しく反応する体をつくるためだと小田は指摘する。
- これらを踏まえ、感動という現象は不随意運動であり、無意識の中にある受動的綜合によって感動するという身体反応(不随意運動)が生じると小田は語る。感動を伴う価値を実現するには、なぜ心が動くのか省察し、焦点を当てなければならないと小田は述べる。
- では、能動的志向性と受動的志向性のどちらが先にあるのだろうか?小田は赤ちゃんを例に取り、まず受動的志向性があり、それに気づくことで能動的意識や随意運動が可能になると語る。また、受動的志向性を分かち合えるのかという問いに対しては、私達はもともと共感しあえる身体をもっていると述べる。
- 私達の生活は受動的志向性の働きから生じる不随意運動が大半を締めている。能動的志向性にばかり意識をむけてしまうと次第に身体性を失ってしまうので、受動的志向性をないがしろにしないこと、既存の受動的志向性に囚われずアップデートしていくことが大事だと締めくくった。