現代では個人の価値観の多様化が進み、それに伴いマネジメント論、キャリア論、組織論、経営論も変化の最中にあります。例えば、かつては終身雇用があたり前で定年退職まで同じ会社で働き続け、家族を養うために個人が会社に適応し、貢献することが一般的でした。しかし、人生100年時代を迎え、多様な生き方や働き方が普及した現在では、どのように生きたいのか・何のために働くのか等、根本的な問いが重要視され、個人が自己実現を探究する必要性が高まっています。
自己実現とアイデンティティ
自己実現とは、「自らの内なる動機」と「他者や社会に発揮している価値」が結びついている状態を指します。つまり、内発的モチベーション、自分のやりたいことや得意なことが生かされていて、なおかつ、同僚・仲間・社会やチームなど、他者の貢献にもつながっているということです。この状態の実現は簡単ではなく、自分のやりたいことや興味があることと他者にとって価値のあることはなかなか折り合いがつきにくいものです。自分のやりたいことを諦めて主体性を失ってしまったり、周囲の声を無視して自分のやりたいことに固執して周囲とギクシャクしてしまったり、あるいは平日は我慢して過ごす変わりに休日で発散するように切り分けることなど、心当たりがある方も少なくないでしょう。
しかし、ときにこれが結びつく瞬間が訪れることがあります。自分のやりたいことで感謝される、いやいや取り組んでいたことが楽しくなってくるなど、何か自分の中の捉え方が変わり「つながった」と感じる瞬間です。
ただ、これは一度結びついたとしても、長続きしないのがまた難しい点です。他者には感謝されるが自分は飽きてしまったり、自分は楽しめているが周囲のニーズやトレンドが変化していたりなど、外的要因で切り離されることもあります。
この結びつく・切り離されるプロセスを繰り返していく中で、自分は何をしたいのか、自分を何者と感じているのか、という「アイデンティティ」がアップデートされていく。これを「自己実現の探究」と呼んでいます。
アイデンティティは、ビジネスパーソンをはじめ、あらゆる人にとって重要なテーマです。「自分のやりたいことは何か」「自分は何を専門とするのか」「なぜこの会社で働いているのか」—こういった悩みは、キャリアを形成していく上で必要不可欠です。さらに、マネジメントの観点からも重要です。例えば、部下が「このまま今の会社で働いていていいのか」「転職した方がいいのか」とキャリアに悩んでいる、その背後にはアイデンティティが絡んでいるでしょう。
今回は、大人にとってのアイデンティティの重要性や年齢によって生じる課題、解決方法について、MIMIGURIのリサーチャー・筑波大学ビジネスサイエンス系助教である池田 めぐみによる講義動画をもとに解説します。
アイデンティティは連続性と一貫性を持ち合わせた「自分らしさ」
アイデンティティは、「連続性と一貫性を感じられる自分らしさ」と定義されています。連続性とは、一時的なものではなく、過去から現在、未来にわたって連続していることを指し、一貫性とは自分だけでなく、周囲の人々からも認められることです。
エリクソンの心理社会的発達段階理論では、特に13歳から19歳くらいの期間(中高生から大学生、就職する頃まで)を「アイデンティティを模索し形成される重要な時期」としています。思春期や大学3、4年生で就職を考え始める時期は、これらを真剣に考える重要な時期であり、模索する必要性が高まった経験がある方もいらっしゃるのではないでしょうか。
アイデンティティが統合されていると、例えば「私はクリエイティブなことが好きで、それが得意な人間だ」と自覚しており、親や周囲の人たちからも「◯◯さんはクリエイティブなことがとても得意だね」と認められている状態になります。
アイデンティティが統合・確立されていると、キャリア選択がしやすくなるなど多くのメリットだけでなく、メンタルヘルスの観点でも良いとされています。「私はクリエイティブな人間で、それが得意で好きだ」と認識できれば、クリエイティブな仕事を選びやすくなり、目標に向かうモチベーションも高まるでしょう。
一方、アイデンティティが定まっていない状態を「アイデンティティの拡散」と呼びます。このような状態は、自分の得意なことや好きなことがわからず、進路選択や取り組むべきことの決定が困難になります。さまざまな可能性を模索するよい機会でもある反面、何かにコミットすることが難しくなる等、あまり長期化することは望ましくないと言われています。
成人期・中年期では新たなアイデンティティの課題が生じる
従来は、就職する頃にはアイデンティティが確立されると考えられていました。しかし、青年期までは、「自分の存在とは何か」という疑問に対する答えがアイデンティティとなりましたが、成人期以降では、職場や家庭といった「他者との関係性」が増えることにより新たなアイデンティティの課題が生じます。自分だけの自己実現で完結するのではなく、「誰のために存在しているのか」「誰のために何ができる人間なのか」といったことも考慮しながら、アイデンティティを形成していく必要があるのです。成人期と中年期の発達課題は、「親密性」「世代性」「統合」と言われており、この新たなアイデンティティの課題を、下記の図を用いて「親密性」「世代性」「統合」に分けて説明していきます。
職業人としてのアイデンティティ(図の右上)は、就職活動など青年期で確立する「自分は何者か」といったアイデンティティ。成人期・中年期は、職場での貢献、部下や上司に対する役割が増えます(右下)。加えて、家庭を持つと子どもや夫・妻に対する役割も生じます(左下)。このように他者と親密な関係を築くことが増えるため、自分だけの自己実現で完結するのではなく、「誰のために存在しているのか」「誰のために何ができる人間なのか」といったことも考慮しながら、アイデンティティを形成していく必要があります。これが「親密性」です。
さらに、40代以降になると、次世代への指導という課題が生じ、自分の経験や知恵を後世に残していくことが重要になります。会社、組織、家族、地域社会との交流を通じて、アイデンティティを発展させることが課題となる、これが「世代性」です。
よくあるのは、右上の職業人としてのアイデンティティや左上の一人の人間としての自律性が確立したのに、右下のようなマネージャーといった業務が入ってきたり左下の家族の中での役割が増えたりして、自分の役割を諦めてしまうこと。すると、出発点だったはずの左上がなくなってしまいます。
もう一つの課題は、アイデンティティの「再統合」の必要性。他者との関係性に加え、社会情勢の変化、例えば、ChatGPTなどの新たな技術や経済状況などの変化が仕事に影響を与えた場合に、これまでに確立した職業人としてのアイデンティティを貫き続けにくくなります。
40歳頃には、体力が衰え始める上、子育てや介護の必要性が増し、仕事での昇進の限界が見えてくる時期ともいわれます。これは「中年の危機」と呼ばれ、周囲との関係性についてモヤモヤとした気持ちを抱えることがあります。さらに、定年退職を迎えると、職業人の役割がなくなるため、再びアイデンティティを問い直すことが増えます。このように、成人期以降でも、アイデンティティが揺らいだり、自分の選択は正しかったのかという見直しが起こったりするため、再統合が必要になります。
新しいアイデンティティを獲得・再統合するには?
成人期・中年期にアイデンティティが揺らぎ、見直す必要性が生じた際の向き合い方は「活路獲得型」「現状維持・保守型」「模索・探索型」「漂流型」の4つに分けられます。
アイデンティティの見直しが必要になった際、放置するのではなく、模索・探索のアクションを起こして、新たなアイデンティティを獲得・再統合して新しいアイデンティティを見つけられると、キャリアで良い選択をしやすいと言われています。これが「活路獲得型」です。
一方、現状に不満や疑問を持っていて、納得できる方向性を探索中という人は「模索・探索型」と呼ばれます。また「もうアイデンティティなんて見直さなくていいんじゃないか」と考える人は「現状維持型」、そもそもアイデンティティを見直さないし探索もしないという人は「漂流型」と分類されます。
アイデンティティの見直しをしなくても統合できればいいと考える方もいるかもしれませんが、こういった人たちは、状況に柔軟に対応できなかったり、社会の変化についていけずに困ったりする場合があります。しかし、給料が安定していて、職場で特に問題も起きていない、という程度の痛みのない状態では、実際にはなかなか動き出しにくく現状維持となるケースも少なくないでしょう。
もっとも望ましい姿とされているのは、活路獲得型です。これまで見てきた通り、新しい自分らしさを見つけてアイデンティティが統合された状況の方が、何かにコミットしやすくなったり、キャリアの良い選択をしやすいといわれており、自己実現につながると考えられます。
では、新しいアイデンティティの獲得・再統合に向けて行動を起こし定着していくには、具体的にどのような行動を起こせばいいのでしょうか。段階は大きく4つに分けられると言われています。
例えばある人は、20代の頃は仕事人間で、休まずに働くのが当たり前でした。しかし、今では体力の低下も感じるし、部下はワークライフバランスを重視して定時で帰宅する、自分自身も育児にも時間を使いたいという状況に変わるなどこれまでの「仕事人間である」というアイデンティティに疑問を感じ始める時期が訪れます。このように変化の認識に伴い疑問が生じるのが第一段階です。
疑問が生じた際の乗り越え方として、次の段階では、過去を振り返り方向性を模索することが大切だといわれます。がむしゃらに仕事ばかりに取り組んできて自分でも気がついていなかったが、小さな嬉しかった場面や幸せだと感じたことに目を向けて、何が自分にとって本当に大切だったのかを考え直してみるのです。その中で、例えば仕事で売上を伸ばしたことよりも、実は仲間と何かを成し遂げたことや家族と過ごすことだと気付いたら、そのような人とのつながりを大切にした生き方に軌道修正する方向性が見えてきます。
方向性が決まったら、軌道修正した方向に実践していく段階です。人とのつながりを大切にするために、業務時間と休憩時間にメリハリをつける、大学時代の友だちとの飲み会にも参加するようにする、といったことができるでしょう。
このように新しい生活スタイルを実現していくと、自分のアイデンティティが「仕事人間」から「仕事もプライベートも充実している人間」へと変化します。このように新しいアイデンティティを獲得・再統合することで、以前よりも前向きになれると言われています。
理想的なのは組織のマネジメントに組み込まれている状態
アイデンティティを見直す際に重要なのは、一人で抱え込まないことです。キャリアカウンセリングを受けたり、会社にそういったサービスがあれば利用したり、友人の力を借りたりするのもいいでしょう。理想的なのは、組織のマネジメントに組み込まれている状態です。マネージャーと話し合いながら仕事とアイデンティティがフィットするように仕事やプロジェクトのアサインを相談したり、得意な仕事ややりたい仕事がチームへの貢献の仕方と一致しているのが望ましいです。
そういった機会がないまま、ただ機械的に業務を割り振られているだけだと、アイデンティティに疑問を感じたときにリフレクションの経験がないために、なかなか行動に移せません。
アイデンティティの揺らぎを感じたときこそ、新たなアイデンティティを探る絶好の機会です。このプロセスをどれだけ楽しめるか、前向きに捉えられるかが、冒険的なキャリアを築く鍵となるでしょう。アイデンティティの揺らぎと新しいアイデンティティの獲得・再統合を繰り返していくことが、内発的動機に基づくキャリアの終わりなき旅といえます。
アイデンティティに関しては心理学や教育心理学など、様々な分野で研究が蓄積されています。大人のアイデンティティは、現代社会において避けて通れないテーマであり、同時に、これを楽しむことで人生の幸福度が大きく変わる可能性を秘めています。
本記事は、CULTIBASE Lab動画「働く大人の「アイデンティティ」の悩みと処方箋」の一部を記事化したものです。動画ではより詳しい内容をご視聴いただけます。
また、40代以降のキャリアについて深めた、「キャリアの“書”方箋」も是非合わせてご覧ください。