私たちは、家族やチームでの小さな約束事から法律に至るまで、日々さまざまなルールに接しています。ルールと聞くと、「創造性やイノベーションを阻害する、窮屈なもの」として捉えられがちかもしれません。しかし、チームの創造性を引き出すためには、「自由」と「制約」を適切にデザインすることが重要です。
では、創造性を最大化するルールとは、どのように設計されるべきなのでしょうか。本記事では、法律家であり、2021年7月から開催中の「ルール?展」の展覧会ディレクターのひとりでもある水野祐さんをゲストにお招きし、『CULTIBASE』編集長の安斎勇樹がモデレーターを務めたトークイベント「職場の創造性を高めるルールのデザイン」の内容を中心に、個人の創造性を引き出す方法について紹介します。
ルールへの主体的参加感覚が、オーナーシップを育む
私たちは、自分が従う身近な「ルール」を自分たちの共同体で決めています。しかし、法律・社則・校則といったルールは、なぜか「変えられない窮屈なもの」として嫌われています。それはなぜでしょうか。
水野さんは、「ルールとは所属メンバーの合意によって絶えずデザインされる可変的もの」だと語ります。しかし、多くの日本の組織では「なぜそのルールが必要なのか?」を問い返されることなく、一方的に押しつけられることが多くなっているのが現状です。つまり、「自分たちの手でルールは変えられる」という効力感を持つ人が少なくなっている。他方で、自分たちがルール設計に主体的に関与することで、「この場所は自分たちのものである」という当事者意識を育むことができるという事例もあります。
ルールへの主体的参加感覚を涵養する取り組みとして、水野さんが挙げてくれた事例が、山口情報芸術センターが制作した「コロガル公園」でした。この公園の特徴は、子どもたちが出したアイデアで公園の構造や遊びのルールが変わることにあります。自分たちが言い出したアイデアで公園のルールが本当に変わることで、子どもたちは「どうしたらこの場所がもっと面白くなるか」を真剣に考える。それを繰り返すうちに、ルールへの参加意識が育まれるというプロジェクトになっています。
CULTIBASEでは、以前「コロガル公園」をプロデュースした、ミュージアムエデュケータの会田大也さんにも登壇していただいております。会田さんは、このプロジェクト事例に「遊びと破綻と自治組織」というタイトルをつけ、次のように語りました。
「子どもたちは公園の設計をいじって斜面をつくったり、ヤギを連れて来たりします。それだけではなく、『子どもスタッフ』という自治組織を勝手につくり、ゲームや祭りの運営まで自分たちで始めたんです。公園のルールを子ども自身が考えることで、『自分たちで決める』というオーナーシップを学習できるんです。」
ルールを逸脱する自由を許容すれば、不確実性に向き合えるしなやかな組織が生まれる
「コロガル公園」では、子どもたちは自治組織をつくり、公園の設計を通じてルールへの参加意識やオーナーシップが育まれていました。しかし、安斎は「ルールに介入できる設計」そのものが、創造的な個人が遊びの中で発揮する、クリエイティブな「逸脱」を阻害するのではないかと指摘します。
「たとえばコロガル公園の事例は、ルールへの主体的参加感覚を涵養する取り組みとしては非常に魅力的だと思います。しかし、コロガル公園は『こういう風に逸脱してね』と、すでに設計されてしまっている。逸脱する方法を提案されている時点で、それは本質的には逸脱ではないようにも感じるんです」
安斎は、あらかじめ遊び方が設計された公園について、「本当に怒られるかもしれない“路上”で遊ぶ楽しさには勝てない」と語ります。また過去にCULTIBASEで開催した「僕たちの組織に“遊べる路上“はあるか」では、『Tired Of』編集長の渡辺龍彦さんが、“路上”で遊ぶスケートボーダーを例に出しながら、次のように語りました。
「優れたクリエイティビティは、遊ぶことが許容されていない場所で遊ぶことから生まれます。“路上”は遊び場ではないし、他人からすると、『そんなところで遊ぶなんて許せない』と怒られる可能性もありますよね。でも、創造的な人たちは、若気の至りのようなエネルギーで、勝手にルールを逸脱して遊び始めてしまうんです。すなわち、人間が本当にクリエイティビティを発揮するのは、本来遊び場ではないところで “遊んじゃう” 性質が発揮された時なんですよね」
近年、従業員の創造性を促進するために、遊びを許容する制度を取り入れようとする企業が増えています。しかし、こうした試みは「サードプレイス」や「ワーケーション制度」といった仕組みの話に終始し、うまくいかないことが多いと安斎は言葉を続けます。
企業が「ここで遊んでいいよ」と遊び方を設計してしまうと、もともと会社を“路上”に見立てて遊んでいたクリエイティブな人たちが、興醒めしてしまう。「遊びを許容する仕組みをつくる」取り組みは、かえって創造的な個人を漂白し、クリエイティビティを停滞させかねない側面があります。
では、企業内に “公園”ではない、 “遊べる路上”をつくりだすには、どのようなデザインをすればよいのでしょうか。渡辺さんが例示していたのは、イギリス・ブリストルの住宅街で路上を開放する際に設けられている「道路を堰き止めて封鎖するだけで、イベントや企画は仕掛けない」というルールでした。普段は車が走っている路上が、ある一時期のみ開放されるだけで、思う存分に遊ぶことができる。そのシチュエーションを提供し、余計な設計はしないことで、創造的な個人が遊ぶ余白を生み出せるかもしれません。
また、立教大学経営学部准教授としてリーダーシップ開発等を研究する舘野泰一さんは、「従業員の創造性が発揮されるのはどんなシチュエーションか?」という議論の中で、「社内の闇勉強会」を例に挙げました。SONYの初代ウォークマンが「上司から隠れて」数人の技術者によって開発されたように、誰かが設計したわけでもないのに、なぜかイノベーションが誕生するような空間が、企業内で自発的に生まれることがあるのです。
こうした例から、創造的な個人にクリエイティビティを最大限発揮してもらうヒントが見えてくるかもしれません。「個人が勝手に始めた遊びや、闇勉強会のようなアンオフィシャルな空間を、どのように許容して見守っていくか」がポイントとなるのです。そうしたインフォーマルな“遊べる路上”は、対話を通してつくられると安斎は語ります。
「企業の中でも、ルールから逸脱して“路上”で遊んでいると、『遊ぶなよ』と怒られて規制されそうになります。でも、そこで遊ぶ人たちは、特に反省や改善をしないことが重要なんです。怒ってきた相手と丁寧に対話し、『そこそこ上手く怒られる』ことで、その場をやり過ごす。それを繰り返すことで、初めて“遊べる路上”というグレーゾーンを保ち続けられるんです」
ルールから「逸脱」する創造的な個人の力が、社会を前進させる
“遊べる路上”を保つことで、創造的な個人はルールを逸脱し、クリエイティビティを発揮できる。けれども、「逸脱されることもあり得る前提」でルールをデザインするためには、どうすればよいのでしょうか。水野さんは、建築家の青木淳さんが提唱する「原っぱ」論を例に挙げながら次にように語ります。
「青木さんは、あらかじめ設計され用途が決まっている空間を “遊園地” と呼び、それに対して無目的な逸脱できる空間を“原っぱ” と呼んでいます。そして、本当に新しいものは遊園地ではなく、逸脱ができる空間、すなわち原っぱから生まれてくると主張しているんですね。この比喩では、いわゆる『設計』の限界が問われているのですが、最近青木さんは『ただ原っぱだけがあっても、遊び場として使えない。遊園地を一度つくろうとしなければ、原っぱも生まれない』とも言っています。つまり、制約がない完全な自由だけでは、人は遊ぶことができないとも考えられるんです」
あらかじめ設計されたルールが存在するからこそ、そこから逸脱しようとする人や、ルールをハックする人が生まれる。ルールを設計すること自体は悪ではなく、むしろルールこそが創造的な逸脱を生み出す可能性をもっています。そのうえで、私たちはルールを逸脱する人たちの存在をもっと肯定的に捉えるべきだと水野さんは言葉を続けます。
「ルールは常に不完全で、絶えずアップデートされていくものだという視点を忘れてはいけません。法律から企業のルールまで、現行のシステムには普段は気づかないバグが潜んでいますし、時代の変化によって古びるルールも出てきます。創造的な個人の逸脱行為は、そのバグを発見してくれる。逸脱者の存在を許容することで、ルールはよりよい形にアップデートされ、社会が前進するエネルギーが生まれるんです」
この話を受けて、安斎は「ルールを逸脱しようとする力」の強さについて、自身が起業した原体験を振り返りました。安斎は大学教員として研究活動を始めた頃に、面倒なルールが多すぎて大学の予算を自由に使うことができず、強いストレスを感じたことが会社を立ち上げることにつながったそうです。
「いま思い返せば、私は『大学という路上』で、ルールを逸脱しながら遊んでいたんです。周囲からは『なにやってるんだ、真剣に研究しろ』と思われていたでしょうが、プレッシャーをかいくぐりながら、学外でワークショップを実践する日々を続けていました。それが起業家としてワークショップ事業を運営する、現在の仕事の礎になっています。嫌だと思うルールがあるから、人はクリエイティビティを発揮して工夫する。もし大学に予算を自由に執行できる仕組みがあったら、『大学の外でやればいい』と強くは思わなかったでしょう。私が起業家になれたのは、大学にルールの強い縛りがあったからだと、いまでは感謝していますね」
水野さんがイベントで繰り返し語ったのは、ルールそのものは悪ではないということです。逆にルールを利用することで、個人の創造性を高めたり、社会を良い方向に誘導できたりします。しかし、安斎は、個人の創造性を引き出すために「逸脱」を許容しすぎる設計をすると、かえってクリエイティビティが失われる可能性があるとも指摘します。ルールが存在するからこそ、そこから逸脱しようとする個人の力が、社会を前進させる。あらかじめ設計された“公園”をつくるのではなく、創造的な個人が遊べる“路上”を組織のなかにつくり、対話によって維持していくことが、不確実性の高い時代を乗りこなすために大切なことではないでしょうか。
Text by Tetsu Ishida
水野さんと安斎によるフルでの対談は以下からご覧いただけます。