「社会参加の方法」としてデザインを捉え、「協力しあうこと」の糸口を探る:連載「コ・デザインをめぐる問いかけ」第5回

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「社会参加の方法」としてデザインを捉え、「協力しあうこと」の糸口を探る:連載「コ・デザインをめぐる問いかけ」第5回

限られた専門家だけでなく、実際の利用者や利害に関わる人々が積極的に加わりながらデザインを進めていく「コ・デザイン(Co-Design)」というアプローチがあります。『コ・デザイン —デザインすることをみんなの手に』を今冬に出版予定の上平︎崇仁さんによる連載の第5回目では、スペインの哲学者、オルテガ・イ・ガゼットによる『大衆の反逆』や、アダム・カヘンの『敵とのコラボレーション』を参照しながら、人々の相互理解や協働を促し、社会参加の方法として「デザイン」を捉えていく重要性を考えます。

「協力しあうこと」は、果てしなく難しい

協力しあうことは大事だ。そう頭では理解していても、現実にはなかなかうまくいかないことは、誰でも知ることです。自分とは異なる考え方を持つ人達とコミュニケーションを取り合い、協力して合意を形成していくことは果てしなく難しいことで、それはもう人類の「永遠の問い」であるとも言えます。

当たり前に存在するように見える社会も、人々がそれぞれ違う立場を理解しあい、共存しようとする努力によって支えられています。同様にコ・デザインも、多様な人々が協力し合おうと努力することで、初めて成り立つものです。いっしょにデザインしていくためにもっとも大事なことは、形式化された知識の中ではなく、一人一人の人間同士の関係性のリアリティの中にあります。理屈では人は動きません。まずは、いっしょに取り組むテーマに対しても、その見え方は人それぞれ違うことを知らなければなりません。

かつてボブ・ディランは「君の立場になれば君が正しい。僕の立場になれば僕が正しい」(One Too Many Mornings)と歌いました。それぞれの視点から見えるものは、一方的な正誤としてジャッジされるようなものではないでしょう。判断の前には、その人なりの立場があり、なぜその立場を取るのかは、深いところにある「心の持ちよう(マインドセット)」に基づいています。こういった信念の違いは、基本的に「いいにくいこと」で、人の心を標準化して扱いがちなデザインの領域ではほとんど言及されません。しかし学問の分野では興味深い知見が蓄積されていますので、それらを参照しながら考えてみたいと思います。

「大衆化」する社会の中で

実はこの問題、100年ほど前からずっと議論になってきたことです。スペインの哲学者、オルテガ・イ・ガゼットは、主著「大衆の反逆」において、人間は大きく二つに分類されるとしました。ひとつは、「自らに多くを要求して困難や義務を課す人」。もうひとつが、「自らに何ら特別な要求をせず、生きることも既存の自分の繰り返しに過ぎず、自己完成への努力をせずに、波のままに浮標(ブイ)のように漂っている人々」、です。オルテガは前者を「貴族(noble)」、後者を「大衆(mass man)」としました。

誤解されがちですが、この分類はいわゆる労働者や民衆への階級差別をしているわけではなく、生き方への態度によって分けたものです。実際に本の中で、オルテガは社会の役割を認識してなすべき仕事をしている姿勢の庶民を高く評価し、逆に専門分野に閉じこもって殻の外側の現実をみようとしない科学者を、大衆的人間の原型だとして厳しく批判しています。彼の言う貴族は、精神的な意味での貴族です。大衆とは均質化し、「みんなと同じである」ことに喜びを見出し、快感を覚えるような人達です。そして食糧不足の際には、〈パンを求めてパン屋を破壊する〉ような短絡的な人達です。そんな大衆が社会的権力の座に登ったとき、凡庸な精神が秀でた個性を抑圧するであろう、さらにたやすく熱狂に流される宙ぶらりんな社会を形成し、やがて破滅に至らしめることになるであろう、というのがオルテガの警告でした。そしてヨーロッパ社会はその直後、実際にファシズムに向かっていきました。

このオルテガの議論で特に重要なのは、この大衆とは「近代化の産物」である、と言う点です。つまり市民一人ひとりが自由と平等を得て発言することができる権利を得た一方で、いろんな関係性は裁ち切られ、責任を持つことと繋がらなくなった。そんな近代社会こそが大衆という存在をデザインし、自ら生み出したものによって自分が首を絞められることになる、そんな悲劇をオルテガは「反逆」と表現したのです。

オルテガの議論は、100年前のヨーロッパ社会の様子をベースにしたもので、今の日本とは状況が違うとも言えますし、そんな単純な話ではない、とも言えるでしょう。しかし、そこに描かれた自分勝手なヨーロッパの大衆の特徴は、日本を含めて今日の世界を席巻している「ポピュリズム」と呼ばれる問題と全く同じように見えます。

工学者の藤井聡は、オルテガの議論を今日の日本の状況の分析に応用し、現代の社会問題の多くは大衆化にその決定的な要因があるとして、大衆性という個人の中にある心的傾向を測定する「大衆尺度」なるスケールを作り出しています。[図1] 。

この合計点数が高いほどその人の大衆性は高い、というものです。「大衆」と名指しされるのは気持ちの良いものではありませんが、読者のみなさんも自分でやってみると面白いでしょう。藤井はこの尺度を元に実際に社会調査を行い、そのデータを分析しています。そこで見出された特徴的な因子として挙げているのが、「ものの道理や背後関係はさておき、とにかく自分自身にはさまざまな能力が携わっており、自分の望み通りに物事が進むであろうと盲信する傾向」(傲慢性)と、「外部環境から自己を閉ざし、外部環境との紐帯やその中での種々の責務を忌避する傾向」(自己閉塞性)の二つです。

過去や将来、身近でない他者を想像することの重要性

藤井らは、さらに、このデータに社会心理学の知見を加えて統計的分析を行っています。その結果、調査で大衆性の高い回答をした人(大衆人)には、以下のような3つの傾向が見られるとしています。

・大衆人は、利己価値を重視し、利他価値や伝統価値、将来価値を軽視する。
・大衆人は、行政に対する不信や否定傾向が強い。
・大衆人同士や大衆―非大衆人間では議論前後の意見変化は少ないが、非大衆人間同士だと意見変化が多くなる。

簡単に言えば、大衆人とは、過去や将来、身近でない他者を想像する範囲が狭く、自分の「いま・ここ」だけを基準に生きる人、とまとめることができそうです。そして他者と協力することに意味を見いだせない人でもあります。他者との協力関係が成立しなければ、社会の維持は困難となり、ルールや共同体は崩壊していくことになります。藤井は、このような傾向を持つ人が増えると、近視眼的な政策や伝統的なルールの破壊、共同体への非協力や裏切りをもたらすであろう、と考察しています。

上記3つの傾向は、統計的に抽出しているだけあって、薄々と私たちが思う「痛いこと」を言い当てているように思われますが、特に注目に値するのが、3つめの前半「大衆人同士や大衆―非大衆人間では、議論前後の意見変化は少ない」という点ではないでしょうか。ミもフタもない言い方をすれば、大衆人は人の話を聞かないため、意見や立場を変えたりすることができないのです。つまり、双方の主張などのメリットデメリットを踏まえて総合的な判断をするような、歩み寄るタイプの議論は、大衆人を交えると困難になってしまうことを示唆しています。この知見は、多様性のある共同体の運営の難しさというものを改めてつきつけます。

この大衆度に関する知見は、それぞれの人に内在する人間性をあぶり出すという点で、見知らぬ他者に対する「信頼」の度合いの問題にも似ています。社会心理学者の山岸俊男は、信頼は、相手の行動によって自分の身が危険にさらされる状態において、相手がそのような行動をとらないだろうと「期待」することとしています。

そして他者一般を基本的に信頼している人々(高信頼者)は、信頼度の低い人々よりも他者の人間性をより正確に見抜けることを示しました。山岸は、他者を信頼している人は、決して単なるお人好しではなく、不確実性の高い対人関係の中でリスクをとることで適切な情報を掴み、そうした経験値に基づいて適切に行動をとれる「社会を生き抜く知性の持ち主」だとしています。

他者を信頼しない人と、大衆性の高い人の特徴は、おそらく相関するように思われます。そして、こんなふうにいくつかの学問の知見を参照していけば、協力関係がうまくいかない理由について、理屈で説明できるのかもしれません。

しかし、ここで大きな疑問が湧きます。私にせよ、あなたにせよ、みな何らかの欠点を抱えながら、うまくいかないもどかしさの中で生きているのではないでしょうか。そこで個別の人に何かの尺度をもとにスコアを与えたり、レッテルを貼って分別したり、というような話は、あまり建設的な方向に向かわないはずです。本当の問題は、私たちはこのように協力しあうための適性までもがバラバラであることや「わかりあえなさ」を知ったその上で、一体どうしようとするのか、です。

「閉じる」べきか、「開く」べきか?

想定できるシナリオとしては、二つの方向性がありそうです。一つは閉じていく方向です。通じあえない人とは距離を置き、話の通じる人同士で共同体をつくっていくこと。若い世代と接していても、自分の評価軸をもとにお荷物になりそうな人とはなるべく関わらず、自分が損しない(とその時点で思った)者同士でチームを組みたがる学生たちをよく目にします。

社会全体で見ると、さまざまな立場の人や多様な年齢層の人々が存在しますので、本来は互助的に共存することが望ましいはずです。しかし、残念ながらそううまく行くものではなく、現在の社会はいろんな場面で、壁が作られ、お互いが視界に入らないような方向に向かっているように思われます。

そしてもう一つは、開いていく方向です。相互に諦めないで、包摂を探り続けることです。オルテガも藤井も、決して「大衆人を切り捨てよ」とか「どうにもならないから諦めよ」という救いのないことを主張しているわけではありません。オルテガは、すべての生は闘いであり、自分自身になろうとする努力なのだ、と強調していますし、藤井は、人々の大衆性は増進したり抑制されたりするものであって、それを低減させることもできる、としています。私も同感です。そして、わかりあえなさが強まる風潮の中で、前者が選択されるのはわかりますし、そうせざるを得ないのかもしれませんが、長い目でみると悪手になるだろう、と危惧するのです。

なぜなら、生物の世界では、多様性を失うと滅びるのが常です。ひとたび違う環境になれば、人間の能力の基準も変わり、優劣は簡単に入れ替わります。感染症の脅威を知った私たちにとって、いったい何が生存の基準になるのか、ますますわからなくなってきました。

時代の変化に対応するためには、分かり合えなさを抱えながらも、いろんな軸による力を認めた方が、最終的にだれかが生き延びる確率が高いのではないでしょうか。現在頻発する厄介な社会問題を乗り越えるためには、どうにかして時代に合わせて自分達の態度そのものを変容していけるのかは、大きな分岐点になるはずです。それができない限り、決して未来はありません。

そして、そのために「対話」が重要だと、一般には考えられています。対話とは、議論のように勝ち負けを目指したり、相手を説得したりするものではなく、「新しい関係性を構築すること」とされます。違う言葉で言えば、「相互の承認」とも言えるかもしれません。つまり、自分たち自身が全体的なプロセスに入り込み、集団としての思考のプロセスを変えようとするものです。互いに話しあうという極めて原始的な方法でありながらも、参加者たちは当初の意見の対立を乗り越えて新しい見方にたどり着くとされ、組織の中に変化を生成していく組織開発の方法としても有用であることが知られています。

人々の共通理解は、行為を通して生み出される

しかし現実問題として、その対話が成り立たないとしたら・・・。対話ファシリテーションの第一人者であるアダム・カヘンは、相互の「対話」だけでは十分ではない、としてさらに踏み込み、いわゆる「敵」とも協働する必要性を説き、次のように言います。

複雑で意見が分れる状況では、計画がうまくいくかどうか、関係者が実行を訳した行動を起こすかどうか、その行動が意図した影響を及ぼすかどうか―知ることができる唯一の方法は、やってみることだ。考えたことが計画通りにうまくいくと想定するのは傲慢で非現実的というものだ。複雑で意見が割れる状況で唯一理に適った前進の方法は一歩づつ進み、進みながら学ぶことになる。(「敵とのコラボレーション」)

そしてアダムは、不確実性と論争の中で前進する例えとして、「私たちは川底の石を探りながら、河を渡っている」という印象的な言葉を参照しています。わからない道をさぐるためには、共通理解を探りあてた「後で」動くのではなく、進みながら軌道修正するほかはない、ということでしょう。これを逆にとらえれば、共通理解は、行為することを通して生み出されるものだ、ということができます。

つまり、「いっしょに何かに取り組む」ことによって、はじめて相互関係も作り出すことができるのです。これは私たちの日常経験とも合致します。たとえば、友達という存在を思い返せば、最初から親しかったわけではなく、濃い経験にいっしょに取り組み、苦楽を共にする日々の中で、友達になっていったはずです。同じように、おそらく社会も最初からあるものではなく、みんなが意識的に働きかけることで「できていく」ものです。

こう考えていくと、都市部に住む多くの人は思い至るでしょう。人はたくさんいても、個人に最適化された生活の中では、そういった関係を生み出すような経験など、ほとんど存在しないことに。特に、本連載の第1回で紹介したアップルジュース生産装置のような、見知らぬ他者と協働するような機会は、都市部ではきわめて丁寧に取り除かれています。以前は、そういった弱い紐帯をつくりだす仕組みは、地域共同体の祭りの運営などによって担われていたと思われますが、今では衰退しているのは明らかです。これでは、社会はつくられようがありません。

社会参加の方法としてのデザイン

と、なると、どんな方法があり得るのでしょうか。

その方法のひとつとして、小さな場を通した「いっしょにデザインに取り組む」実践の中に可能性が見いだせるのではないか、と私は考えます。

デザインするという行為の中には、手を動かして何かをつくるという体験の喜びに加えて、つくりだしたものが伝わったり、機能したりした際の仕事の喜びが伴ったりします。また、状況を調べて文脈を理解することや、できたものを使ってみることで世の中の文脈や仕組みが見えてくることが沢山あります。

もちろん、自分ひとりでやることは難しいことです。しかし、みんなと一緒ならやれる、背伸びしてできるようになる、そんな力を借りながら共に行っていく中にこそ、本当の学びが存在しています。少なくともそのような関わりあいの体験は、私たちの中に眠っている原始的な感覚を刺激するのではないか。本来創造的なはずの人間を受け身にしたのが「近代化」の副作用であるのならば、近代に成立した消費者以前に(ほんの部分的であっても)たちかえり、生活の配分を変えてみる機会をもつことで、自分の役割を担うことや豊かな全体性を見ることを再考させるのではないか。小さな出発点ではありますが、いっしょにデザインに取り組む中には、そんないろんなことが埋め込まれているように思うのです。

そんなにうまくいくものか、と疑問に思う人もいるでしょう。もちろん、オセロがパタパタと白から黒に裏返るような、即効性のある薬になるわけではありません。ただ多くの人が、消費活動にいそしむあまり、自分たちの手でつくりだして熟成していく経験をどこかに置き忘れています。それらを思い出し、眠っている種から芽がでるような、小さな経験にはなるのではないでしょうか。

民俗学研究者の今和次郎は、終戦後の農村改善運動を通して、農家の主婦たちの家事労働が、レクリエーション行為と混じり合った活動であることを指摘しています。彼女らは起きている間、ずっと種々の作業で追い回されているけれども、のんびりとかまどに火を入れ、煮炊きを見張る中でささやかな休息を取ることができていた。ところが台所にガスコンロを導入して生産性を上げたら、その時間にも次々と他の仕事が割り込むことで余裕がなくなり、以前よりもかえって忙しさを感じるようになった。農家の生活に助言する中でそんな声を聞いたようです。それは情報技術によって無駄を省き、移動を省き、効率化を進める一方で、ますます追われるように予定を詰め込む今の私たちの姿にも、強く重なります。

私は普段若者達や社会人にデザインの考え方を伝え、学びのお手伝いをすることで口に糊していますが、なにかをつくりだすことに取り組み、その楽しさを知ることで、態度が激変する人を沢山見てきました。

さらに、いっしょにデザインすることは、これまでみてきたように成果物だけに寄与するものではありません。たとえばクレームの多くは相互の様子が見えないことによるコミュニケーション不足で引き起こされますが、実際に「やってみる」ことで距離を縮めることができるのです。

たとえば、各地の薬局でときどき開催されている「薬剤師体験会」は小さな地域活動ですが、実際に参加者が処方箋通りに薬を出すプロセスを体験してみると、参加した人は「なぜそこまで時間かかるのか」を実感し、薬の待ち時間に対して理解を示すようになると言います。こういった地道なことは、営利にはなるわけではありませんが、プロセスに参加し、同じ苦労をしてみることで心理的な距離が縮まることはイメージできるでしょう。理解しあえなさを嘆く前に、そういった共通言語づくりをいとわないことが、相互に理解し合う態度につながるのではないでしょうか。

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コ・デザインをめぐる問いかけ

コ・デザインをめぐる問いかけ

限られた専門家だけでなく、実際の利用者や利害に関わる人々が積極的に加わりながらデザインを進めていく「コ・デザイン(Co-Design)」という考え方があります。特集「コ・デザインをめぐる問いかけ」では、厄介な問題(Wicked Problem)に対して新しい視座を与えうる「コ・デザイン(Co-Design)」について、上平︎崇仁さん(専修大学ネットワーク情報学部教授)が紹介・解説します。

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著者

専修⼤学ネットワーク情報学部教授。大阪大学エスノグラフィーラボ招聘研究員。グラフィックデザイナーを経て、2000年から情報デザインの教育・研究に従事。近年は社会性への視点を強め、デザイナーだけでは⼿に負えない複雑な問題や厄介な問題に対して、⼈々の相互作⽤を活かして⽴ち向かっていくためのCoDesign(協働のデザイン)の仕組みや理論について探求している。15-16年にはコペンハーゲンIT⼤学客員研究員として、北欧の参加型デザインの調査研究に従事。単著に『コ・デザイン― デザインすることをみんなの手に』がある。

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