一期一会の世界との出会いに応答していくために、前景化されない「身体」の声に耳を澄ます:連載『「計画」を超えて』第4回

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一期一会の世界との出会いに応答していくために、前景化されない「身体」の声に耳を澄ます:連載『「計画」を超えて』第4回

「事前に計画すること」は、わたしたちのいま・この瞬間に焦点をあわせる感覚を弱体化しているのではないか? そんな問いを起点として「計画」に対抗して生きるための知を探索していく、上平崇仁さんによる本連載。その第4回では、一期一会の世界との出会いに応答していくための「直感」と、その背後にある「身体性」や「偶発性」を再考します。

事前に計画することが強く求められる時代です。しかし、先回りして決めることが増えれば増えるほど、周囲の余白は消え、「いま・ここ」に生起する他の可能性を見失ってしまいがちです。前のめりになってスピードをあげることが是とされる中で、わたしたち生活者は、いかにして一期一会の世界との出会いに応答していくことができるのでしょうか。

本連載では、さまざまな領域の知を借りつつ、あえて常識とは逆のフレームに切り替えて今の時代の問題を探索することを試みます。また、そこから生活者目線のデザインのあり方を探ろうとするものです。これまでの連載では、以下のようなテーマを綴ってきました。

・「計画」に対抗して生きる。イマ・ココを味わう身体感覚を呼び戻す
・リフレクションは〈誰〉がするのか? わたしたちの中に存在する「2つの自己」にまつわる問い
・「地図」が旅行者の動きをコントロールする時代に、「状況論」から学べること

第4回となる今回では、これらの視座を引き継ぎつつ、計画に“縛られすぎない”行動のための実践的な方法について見ていきます。結論から書けば、普段は意識されにくい「身体」を起点にしてみよう、という話です。

そもそも矛盾の中に生きている人間

連載の中で私が書いてきたことは、実はそれほど新規性のある話ではなく、ビジネスパーソンであればあちこちで見聞きしたことがあるようなものでしょう。

例えば、ソフトウェア開発者たちによる 『アジャイル宣言』[3](2001)では、「計画に従うことよりも変化への対応を(Responding to change over following a plan)」とはっきり書かれています。ジョン・ボイドのOODA Loop[1](1976)、 クリス・アージリスの「Double-loop learning」[2](1991)などの知見も、同じように計画と実行の間にあるギャップに着目するものです。

こうした有名な知見が語るように、人間にとって「臨機応変な知」は重要なテーマであり続けてきました。幾多の苦境は、それらに支えられて乗り越えられてきたことは間違いないでしょう。

その一方で、多くの人の中には、うまくいった前例をコピーして今をしのごうとする、そんな思惑も同時に息づくようです。前回の記事では、その理由のひとつとして、〈状況的な知〉を持つと同時に〈他者を模倣して学ぶ社会的な知〉を持つという、学習共同体の多面性に言及しましたが、そこにはいきいきとした知を扱う難しさや、人間の抱える矛盾が映し出されているようでもあります。

そして、矛盾を抱えつつ生きるという点で、もうひとつ私が強烈に思い出すのが、30年ほど前に流行した、「脳と身体は、実は仲がわるい」説です。解剖学者の養老孟司は、脳が矛盾した装置である――すなわち、自らの構造を投影した人工的な環境を作り出すけれども、実は自らが支配することができない身体によって支えられている――ことを指摘しました[4]。

養老は、「私たちの脳は、周囲のすべてを人工物化しようとして、最終的に身体(=自然)から復讐されてしまう反逆的な存在だ」と言うのです。

脳化=社会が身体を嫌うのは、当然である。脳は必ず自らの身体性によって裏切られるからである。脳はその発生母体である身体によって、最後に必ず滅ぼされる。それが死である。その意味では「中枢は末端の奴隷」である。その怨念は身体に向かう。<中略>

脳化=社会で最終的に抑圧されるべきものは、身体である。ゆえに死体である。死体は身体性そのものを指示するからである。脳は自己の身体性を嫌う。それは支配と統御の彼方にあるからである。

――『唯脳論』養老孟司 ちくま学芸文庫

比喩的な言い方ではありますが、両者の間に相容れないものがあるとする養老の主張はなんだか説得力がある気がして、長年私の中に残りました。ヒトはものすごい速度で文化を発展させ、積極的に自分の周囲を改変してきました。それを反映してヒトの身体も少しずつ変化しているとは言え、基本的なメカニズムは今でもずっと狩猟採集民のままです。確かに、脳が生み出す文化のスピードと、生身の身体が変化するスピードが、まったく重ならないように見えるのは、そういうことかもしれないな、と。

わたしたちへのトリプルパンチ

わたしたちは、ついつい一人の人間をひとまとまりの存在として捉えがちですが、少し解像度を上げて眺めてみると、そのスピードのズレゆえか、身体と脳の間で絶え間ない抗争が繰り広げられており、どうやらそれこそが不具合の原因でもあるようです。

現代人がかかる病気の多くは、そうしたミスマッチによって引き起こされていることは、しばしば指摘されます[5]。要するに、現代的な生活様式と本来あるべき身体のつくりとの〈不適合〉です。

環境人文学者のヴァイバー・クリガン=リードは、「私たちが脳を持っているのは、ひとえに動くためである」として、全身体で保たれてきた調和を退化させないために、「すべて(骨・腱・靭帯・筋肉・関節・体性感覚など)を動かさなくてはならない」と警告を鳴らします[6]。

私たちが脳を持っているのは、ひとえに動くためだ。人間の身体は、新たな脳細胞を作り、神経伝達物質の働きを高め、活力を与えることで、あらゆる類の動きから恩恵を得ているのだ。 <中略>
今日の私たちは、自分の身体に本当に必要なことをほとんどしていないのにも気づかずに、1日10,000歩(一歩一歩全てがまったく同じ)や、エアマックスにこだわっている。身体の動きを現代生活の栄養にたとえれば、私たちは餓死寸前だと言えるだろう。

――ヴァイバー・クリガン=リード著 『サピエンス異変』水谷淳 鍛原多恵子 訳 飛鳥新社 2018 P.227

これは実に痛い指摘だと言えるでしょう。現在、わたし達は目先のパンデミックに注意を奪われがちですが、少し視点を変えれば気候変動だって喫緊の課題です。それらのヘビーな2つのパンチに加えて、さらにもうひとつの難題、ずっと当たり前に働いてくれると思いこんできた、わたしたちの内部の身体機能を見直することまでも課されるわけですから。

会社や学校でリモートが普及し、本来の身体の機能だった「移動すること」の必然性が失われつつあります。一方では、年々上昇する気温の中で、室内でしか過ごせない日が増え、環境変化を「感じること」も失われつつあります。それに加えて、人工化された街では、身体や内臓の諸機能と密接に関係している、目に見えない微生物類が徹底的に排除され続けています。

都市の日常生活を改めて思い起こすと、さまざまな関係性が急速に貧しくなっていることが明らかで、確かに身体にとっては滋養のないミスマッチだらけの日々だと気付かさせられます。そうして、シェルター生活が徐々に忍び寄る中で、身体(=内なる自然)は決して従順な存在ではなく、すきあらば復讐を狙っているのです。

原初的な感覚を呼び覚ます

話を戻します。わたしたちは何かの計画を立てる際に未来を予測しながら考えますが、しばしば前提となっている物事に意識を向けることを忘れてしまいます。本当のところは、その前提は最初から安定していないのにもかかわらず。

今の時代は、そんな不安定さを受け止め、しなやかに修正し続けていくしかありません。そのためには、これまでとは異なる、別の見方に切り替えてみることは有意義でしょう。

その切り替えの起点となるのは、なんでしょうか。私自身は、おそらく「身体性」だろうと考えています。思考に先立って反応し、自分と世界とのインタフェースとなる、一人称としての自分の全身体のセンサーを駆使した「直感」を見直すことだろう、と。

前回記事では、「刻々と状況が変化していく環境に(たとえ時折であっても)身を置いてみることが大事だろう」と書きました。つまり、「頭で予測する→準備する→達成する」の通常の因果的な思考過程ではなく、その場その場にある予期できない偶発的な変化を、「経験の自己」(第2回)によって「感じる」ことを起点にする試みです。

なにかがおかしい、と言葉になる前の違和感を“察知”することや、ここになにかあるかもしれないと“勘を働かせる”ことこそ、わたしたちの身体性と分かちがたく結びついています。そのためには、(仲が悪いのかもしれない)身体を気遣いつつ、「ともにある」状態へと見直さなくてはなりません。こうした観点をもとに、直感の背後にある「身体性」や「偶発性」を再考してみたいのです。

身体性は創造活動にも影響を与える

そうは言っても、わたしたちの意識や感情は仮想世界の中でも実感できるわけだから、生身の身体とは切り離されて働いているのでは……。そんな疑問を持たれた方もいるかもしれません。古くは17世紀に哲学者のデカルトがそんな視座(心身二元論)を提示しましたが、両者を別物だとする見方は、今でも影響力を持っています。

しかし、今日では認知機能が身体運動によって活性化することは多くの研究で裏付けられていますし[7]、自分自身の経験をふりかえってみても、例えば温泉や散歩で心が洗われる思いをしたり、筋トレ中に新鮮なアイデアがひらめいたりした人は多いでしょう。それらは明らかにわたしたちの身体活動が心(意識や感情)に影響しているのであり、両者は密接に関係しあっていることを示しています。

さらに身体性は、創造活動にも影響を与えると言えます。ジョギングやスイミングを日課にしているクリエイターは数多くいますが、一番有名なのは長年マラソンを走り続けている村上春樹氏でしょうか。たとえば彼は「走ること」について、以下のように語ります。

僕は走りながら、ただ走っている。僕は原則的には空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている、と言うことかもしれない。そのような空白の中にも、その時々の考えが自然に潜り込んでくる。当然のことだ。 人間の心には真の空白など存在しないのだから。人間の精神は真空を抱え込めるほど強くないし、また一貫してもいない。 とは言え、走っている僕の精神の中に入り込んでくるそのような考え(想念)は、あくまで空白の従属物に過ぎない。それは内容ではなく、空白性を軸として成り立っている考えなのだ。

――村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』文藝春秋 2007 P.32 [8]

作家の中にある創造活動は外側から観察する視点では捉えにくいものですが、本人による内側の語りからは本質的なことが垣間見えます。この稀代の作家は、ストーリーを描き出すための余地(空白)を、自分の身体性を通して習慣的に作り出していることがわかります。

身体を動かすことは創作と関係ないどころか、(少なくとも彼自身は)「小説を書くことについての多くを、道路を毎朝走ることから学んできた」[9]とまで言っています。頭の中にギシギシに“詰め込む”ことを信じている人にとっては、真逆のような話で衝撃でしょう。実は“空ける”ことも大事なのです。

まとめ:「ともにあるもの」として意識や感情を捉えよう

身体は決して従順な機械のようなものではなく、複雑かつ脆弱な有機体であり、環境と相互作用することでその変化を原初的な表象として描き出しています[10]。そして身体経験は、日々用いられる言葉のメタファ(比喩表現)の奥深くまで入り込み[11]、そして、“時間”のような抽象的なものも含めてわたしたちの概念的な知識を構築しています[12]。

それらは本来は、みな経験的に知っていることなのですが、しばしば背景化されて置き去りにされがちでした。だからこそ、時々は身体が感じていることを前景化し、意識や感情と「ともにあるもの」として捉えてみなくてはなりません。その一人称的な現実性があってこそ、生の身体に対してより深く気遣うことができるでしょうし、流転する時代に変化を受け止め、計画をしなやかに修正し続けていく態度へとつながるでしょう。

というわけで、次回では関連するいくつかの具体的な事例をいくつか紹介したいと思います。

参考文献
[1]Boyd, John R. (3 September 1976). Destruction and Creation (PDF). U.S. Army Command and General Staff College.
[2] Argyris, Chris (May 1991). “Teaching smart people how to learn” (PDF). Harvard Business Review. 69 (3): 99–109. Retrieved 22 November 2015.
[3]アジャイルソフトウェア開発宣言 https://agilemanifesto.org/iso/ja/manifesto.html
[4]『唯脳論』養老孟司 ちくま学芸文庫 1998
[5]ジェレミー・テイラー『人類の進化が病を生んだ』 小谷野 昭子 (訳)、河出書房新社、2018
[6]ヴァイバー・クリガン=リード著 水谷淳 鍛原多恵子 訳 『サピエンス異変』飛鳥新社 2018
[7] Sebastian Ludyga et al. “Systematic review and meta-analysis investigating moderators of long-term effects of exercise on cognition in healthy individuals” Nature Human Behaviour volume 4, pages 603–612 (2020)
[8]村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』文藝春秋 2007 P. 32
[9]前掲書 P.113
[10]アントニオ・ダマシオ『デカルトの誤り―情動、理性、人間の脳』田中三彦 2010 p.344
[11]ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン『レトリックと人生』 渡部 昇一 ・楠瀬 淳三・下谷 和幸 訳、大修館書店、1986
[12] レベッカ・フィンチャーキーファー 『知識は身体からできているー身体化された認知の心理学』望月正哉・井関龍太・川﨑惠理子 訳、新曜社、2021
著者プロフィール:
上平 崇仁
専修⼤学ネットワーク情報学部教授。大阪大学エスノグラフィーラボ招聘研究員。グラフィックデザイナーを経て、2000年から情報デザインの教育・研究に従事。近年は社会性への視点を強め、デザイナーだけでは⼿に負えない複雑な問題や厄介な問題に対して、⼈々の相互作⽤を活かして⽴ち向かっていくためのCoDesign(協働のデザイン)の仕組みや理論について探求している。15-16年にはコペンハーゲンIT⼤学客員研究員として、北欧の参加型デザインの調査研究に従事。単著に『コ・デザイン― デザインすることをみんなの手に』がある。

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「計画」を超えて

好評連載『コ・デザインをめぐる問いかけ』を担当いただいた上平︎​崇仁さんによる新連載が始まります。テーマは『「計画」を超えて』。ビジネスの現場でも支配的な考え方となっている「事前に計画すること」は、わたしたちのいま・この瞬間に焦点をあわせる感覚を弱体化しているのではないか? その領域を考えることで、人間の創造性の新しい方向を探れるのではないか?

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著者

専修⼤学ネットワーク情報学部教授。大阪大学エスノグラフィーラボ招聘研究員。グラフィックデザイナーを経て、2000年から情報デザインの教育・研究に従事。近年は社会性への視点を強め、デザイナーだけでは⼿に負えない複雑な問題や厄介な問題に対して、⼈々の相互作⽤を活かして⽴ち向かっていくためのCoDesign(協働のデザイン)の仕組みや理論について探求している。15-16年にはコペンハーゲンIT⼤学客員研究員として、北欧の参加型デザインの調査研究に従事。単著に『コ・デザイン― デザインすることをみんなの手に』がある。

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