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真の出会いとしての対話 − マルティン・ブーバーの対話観 − 【連載】対話観を巡る旅 第3回

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約21分

真の出会いとしての対話 − マルティン・ブーバーの対話観  − 【連載】対話観を巡る旅 第3回
「世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる」¹

こんな言葉からはじまる名著がある。オーストリア出身のユダヤ系宗教哲学者マルティン・ブーバー(1878〜1965)の『我と汝・対話』である。

二つの態度とは〈われーなんじ〉〈われーそれ〉。〈われーそれ〉の態度は、他者を道具と見なし、部分に分解し、対象化された〈それ〉と関わる。一方、〈われーなんじ〉の態度は、他者を全体的な存在として捉え、関係の中に生きる。

「対話」の思想家と思われる人たちの対話観を紹介していく本連載。第3回ではブーバーを取り上げる。真に出会い、関係し合う時、私たちは〈われーなんじ〉の世界を生きている。その時、発生しているコミュニケーションこそが、ブーバーの「対話」である。

では、それはどんな対話観なのか。さっそく見ていこう。

〈われーなんじ〉と〈われーそれ〉の世界

まず、〈われーなんじ〉と〈われーそれ〉の世界観を押さえておきたい。ブーバーの次の有名な言葉から引用してみよう。

メロディーは音から成り立っているのではなく、詩は単語から成り立っているのではなく、彫刻は線から成り立っているのではない。これらを引きちぎり、ばらばらに裂くならば、統一は多様性に分解されてしまうにちがいない。このことは、わたしが〈なんじ〉と呼ぶひとの場合にもあてはまる。わたしはそのひとの髪の色とか、話し方、人柄などをとり出すことができるし、つねにそうせざるを得ない。しかし、そのひとはもはや〈なんじ〉ではなくなってしまう。²

つまり、〈なんじ〉とは 「部分的な存在」ではなく、「全体的な存在」としての唯一無二のあなた、という意味である。そして「〈なんじ〉を語るひとは、対象といったようなものをもたない」³。「関係の中に生きるのである」⁴。

一方、〈それ〉とは、「けっして全存在をもって語ることができない」⁵ものであり、ばらばらに対象化された断片である。この世界観を私なりに図示すると、以下のようになる。

例えば、ブーバーも例に挙げている「髪の色」を考えてみても、もし「髪の色」だけでその人を判断するならば、その時、私たちは〈われーそれ〉の世界に生きていることになる。

しかし、無意識にも他者を外見で判断してしまうことはよく起こる。ブーバー自身も「つねにそうせざるを得ない」と言っている。

私たちは「主観」というフィルターを外すことができない。程度の差はあれど、他者を〈それ〉として見ざるをえないところがある。ましてや、ブーバーは「我と汝」第一部の最後で、こうも言っている。

人間は〈それ〉なくしては生きることはできない。しかし、〈それ〉のみで生きるものは、真の人間ではない。⁶

つまり、他者を〈それ〉と認識することからは逃れられない。その自覚がブーバーにはあった。しかし、〈それ〉のみの関係でいいのか、と問題提起しているのである。

〈われーなんじ〉と〈われーそれ〉の二重性

さらに、ブーバーは晩年、〈われーなんじ〉と〈われーそれ〉の二重性への自覚を強めていく。『ブーバー対話論とホリスティック教育』の著者である吉田敦彦は、以下のようにブーバーの言葉を紹介している。

ブーバーは晩年に、自らの思想的営為を回想して、次のように語る。「私にとって重要であったのは、根源語〈我ー汝 Ich-Du〉と根源語〈我ーそれ Ich-Es〉の二重性を指し示すことであった。この二重性は、全ての存在者と共存する人間の生の根本事情であるが、にもかかわらずこのことにはほとんど注意が払われていなかった」。⁷

要するに、ブーバーは単純に〈われーそれ〉が悪であり、〈われーなんじ〉が善である、と言いたかったわけではない。この二重性を自覚しつつも、その上で〈われーなんじ〉の態度で生きていくことの理想を追い求めた、とも言えるだろう。

しかし、いきなり「〈われーなんじ〉と〈われーそれ〉の二重性」と言われても、私たち一般人からすれば、イメージしづらい。そこで、上記のイラストを字義通り「二」つに「重」ねて、「二つの層(レイヤー)」として考えてみたい。以下は、パワーポイントで二つのイラストを同じ場所に重ねた上で、レイヤー表示した図である。

つまり、〈われーなんじ〉と〈われーそれ〉は、くっきり二分された二つの世界にあるのではなく、むしろ一つの世界に重なるように同時展開されている。もっと言えば、ばらばらに対象化された〈それ〉らにも一つひとつのレイヤーがある、と考えてもいい。

例えば、相手の服装に焦点が当たっている時は、〈われーそれ(服装)〉の世界が前面に出てきて、〈われーなんじ〉の世界が背景に後退する。逆に、目の前の他者と「全体的な存在」として関わっている時には、〈われーなんじ〉が前景化する。

こう考えてみると、ブーバーの「〈われーなんじ〉と〈われーそれ〉の二重性」もイメージしやすくなる。〈われーそれ〉の関係は仕方なしに訪れる。それも認めた上で、それでもなお〈われーなんじ〉の理想を手放さなかったからこそ、この「二重性」という発想が生まれてきたのだろうと、私は想像する。

さて、本題はここからである。ブーバーの「対話」とは、まさにこの〈われーなんじ〉の関係において、他者と真に出会いながら、関わり合っていくことを意味するのである。

では、続いて「真の出会い」について見ていこう。

真の出会いは、私の世界を揺さぶる

ブーバーは「すべて真に生きられる現実は出会いである」⁸と言うほどに、「出会い」を重視している。ブーバーにとっての「真の出会い」とは〈われーなんじ〉の関係において出会うことであり、それは同時に危険を伴うことでもあった。吉田は、先の本の中でブーバーの言葉を引用しながらこう述べている。

出会いとは、人生の物語(ストーリー)の筋書きにはなかった予想外の出来事であり、その瞬間には、「確かだったはずの物事の連関が揺さぶられて緩み、満足感よりもむしろ大きな問いを後に残して、それまでの確信が動揺する。その瞬間はまさに不気味であるが、しかし人生にとって不可欠なものである」。⁹

つまり、出会いによって、馴染みある安定した「私の世界」が揺さぶられる。〈われーそれ〉の関係において出会うならば、既に知っている〈それ〉を認識し〈それ〉として関わるだけでよかった。しかし、一切を規定せず、〈それ〉として見ず、目の前の〈なんじ〉として出会う時、〈なんじ〉は理解不可能な存在となる。だからこそ、「真の出会い」は危険でもあるのだ。

「〈それ〉の世界は、時間と空間の中につながりをもっている」¹⁰とブーバーは言うが、〈なんじ〉の世界は、それらをもたない。刻々と変化する〈なんじ〉は、昨日までの〈なんじ〉とは違う。一分一秒前の〈なんじ〉とも違う。〈なんじ〉とは、関係において今まさに生まれつつある存在なのである。

そうした〈なんじ〉と出会い直す時、〈それ〉との関係は剥がれ落ち、「むき出しの世界」が現われる。というのも、そもそも「世界」とは無秩序であったが、意味づけすることで、はじめて秩序をもって認識できていたものであったからだ。

出会いから、沈黙を通して、対話へ

さて、ここからブーバーの対話観の中でも重要な「沈黙」の話に入っていく。〈われーなんじ〉の関係の中で出会い、「むき出しの世界」に置かれると、人は黙らざるをえない。それがたとえ一瞬だとしても。なぜなら、自分の知っている秩序化された物語では、目の前の事態を把握できないからである。吉田は、このように語る。

ある物語が人々の間で共有されているかぎり、物語を通して秩序づけられた世界のなかに、人は安心して住まうことができる。ところが、「出会いは世界に秩序を生みださない」とブーバーは言う。出会いにおいては、確かだったはずの意味の連関や秩序は揺らぎ、きしみ、ときには破綻する。わかっていたはずの自分のアイデンティティも問いに付され、自らを物語る言葉を失う。¹¹

つまり、出会いは「私の世界」を揺さぶるだけではなく、「私の言葉」さえも奪いとる。しかし、こうした沈黙は対話への「いわば通過点なのである」¹²と吉田は言う。そして、こう続ける。

「対話」は、言葉を失う沈黙にあってその深みから聴こえてくる言葉に耳をすませて待ち望み、それに応答するところからはじまる。他者の他者性にぶつかる出会いが沈黙を生み、もはや使い慣れた物語の言葉が通用しないことを知りつつ、今ここで「語られることを望む性格となった言葉」を語りはじめること。出会いから、沈黙を通して、対話へ。¹³

こうして、「出会いから、沈黙を通して、対話へ」という大きな流れが見えてきた。出会いによって「私の世界」は剥がれ落ち、「むき出しの世界」において沈黙が訪れる。その沈黙の深みで聴こえてきた言葉に応答していくこと、そこから対話は生まれる。

ちなみに、ここで言う「聴こえてくる言葉」は、必ずしも「言葉」だけを意味するものではない。非言語の動作なども含む。吉田は、ブーバーを引きながらこうも言っている。

生きているかぎり、たえずいつも、私たちは呼びかけられて、語りかけられている。必ずしも決定的な「出会い」の瞬間にだけ語りかけられるのではなくて。一人の子どもがあなたの手をつかんだ、あるいは、一匹の犬があなたを見つめた、その瞬間にも、「こうした日常の現実のあるがままの出来事のなかで、それが大きくあれ小さくあれ、私たちは語りかけられている」。¹⁴

確かに、子どもが黙ってぎゅっと手をつかんだ瞬間、それは言葉以外で何かを語っているだろう。そして、考えてみれば、生きた存在だけでなく、物自体も何らかのメッセージを発していたことにも気づく。公園のベンチは「ここに座ってもいいよ」と発しているし、街の中の広告や看板も常にメッセージを出し続けている。つまり、生物でも無生物でも常に「何か」を発信している。そして、その発信から「私が聴きとったもの」に応答していくこと、そこから対話がはじまる。

しるしに耳を傾け、内なる声に応答する

「出会いから、沈黙を通して、対話へ」という流れを掴んだところで、私がさらに重要だと感じていることは、沈黙において「何をどう聴きとるか」である。そこで鍵となるのが「しるし」という言葉だ。ブーバーは、こう言う。

われわれはみな、甲胃を身にまとい、われわれに生ずるしるしを近づけぬようにしている。しるしはたえず生じている。生きていることは、語りかけられていることであり、われわれはただこのしるしに立ち向かい、これに耳を傾けることだけが必要である。¹⁵

ここで言う「しるし」とはいったい何か。原文のドイツ語では「Zeichen(ツァイヒエン)」になるが、「合図・信号・しぐさ・身振り・目印・マーク・記号・標識・ 兆候・前兆」などの意味がある。これらの辞書的な意味を引き受けた上で、「しるし=メッセージ」と受けとるならば、上記の引用も少しは理解しやすくなる。

つまり、私に向かってくるメッセージはたえず生じている。例えば、電車の中で、街の中で、家庭の中で。しかし、私たちは「甲冑で身をかためており、習慣的になったものはもはやすぐには感じないようになっている」¹⁶。外からのメッセージを「既知のもの」として捉えた時、私たちは〈われーそれ〉の世界を前面に生きている。一方で、それを「未知のもの」として、その都度、新たに出会い直すならば、〈われーなんじ〉の関係が動き出す。

さらに興味深いことに、ブーバーが「耳を傾けよ」と言っている対象は「外からのメッセージ」だけではない。ブーバーは、こう述べている。

わたしに生起するものは、わたしへの語りかけである。わたしに生起するものである世界の現象は、わたしへの語りかけである。¹⁷

つまり、「私の内側に生じてしまった反応があったならば、それは私への語りかけであった」ということである。つまり、ブーバーは「外からのメッセージ」を受けとった上で「内からのメッセージ」にも耳を傾けよ、と言っているのである。一つ例を挙げてみよう。

例えば、ペットショップで一匹の猫と目が合う。ある人は「ああ、かわいいね〜」で終わる。しかし、ある人は「私を連れていって〜」という声を聴いてしまう。もちろん猫の声ではない。しかし、確かに感じとってしまった「内なる声」である。同じ出来事でも、そこで「聴きとる声」は異なる。私の内にその声が生じたのであれば、それは確かに「私への語りかけ」であり、こうした「内なる声」に応答していくことが、ブーバーの対話なのである。

そして、ここではブーバーの神の概念には深入りしないが、一言だけ触れておくと、「人間にたいする神の語りかけは、われわれそれぞれの生のうちに現われる」¹⁸と言っているように、この「内なる声」こそが「神からの語りかけ」なのである。

二重の聴く

こうして、ブーバーの対話においては、「外からのメッセージ」と「内からのメッセージ」の両方に耳を傾ける必要性が見えてきた。とすると、対話する私たちには、「二重の聴く」という姿勢が必要になってくるだろう。

「外からのメッセージ」は「他者の声を聴く」という具体的なイメージもしやすい。しかし、「内からのメッセージ」はどこからどう聴こえてくるのか、イメージしづらい。脳なのか。心なのか。上からなのか。下からなのか。

そこで、一つのメタファーとして、「心の中に湖がある」というイメージをしてみるのはどうだろうか。その心の湖では、下から気泡が次々に湧いてくる。その気泡を「今、思ってしまったこと・感じてしまったこと」と考えてみる。それらは自動的に湧いてくるものでもあり、自在にコントロールできない。

この気泡は、言ってみれば、「私に到来してくるもの」であり、それこそが「内なる声」である。それは「私自身の素直な反応」であり、「ほんとうの声」でもある。

しかし、こうした「内からのメッセージ」は、普段は蓋をしていることも多いだろう。なぜならば、「いけないとされているような思考や感情や言葉」の気泡も湧いてくるからである。例えば、「自分勝手すぎる考え」だったり「相手をひどく傷つける言葉」だったりするかもしれない。

そのため、多くの人は社会生活を良好に過ごすために、程よく「ほんとうの声」に蓋をする。しかし、蓋を閉めていることが当たり前になってしまうと、ついには蓋が開かなくなり、「ほんとうの声」が聴けなくなることもある。その時、ブーバーの比喩を思い出すならば、この蓋は「内なる甲冑」と化しているのかもしれない。

それならば、そうした「内なる甲冑」も適度に外さなければならない。そして、自分自身の「ほんとうの声」を聴きとること、つまりは、自分自身の内に目を向けることで、こうした「二重の聴く」は可能になっていくだろう。

しかし、ここで注意が必要である。次から次へと湧いてくる「内からのメッセージ」だけに注目を向けていたら、「外からのメッセージ」への注意力が弱まってしまう。つまり、自分の声ばかりに耳を傾けて、相手の声を聴いていない。そこで重要なことは、注意を向けるエネルギーのバランスではないだろうか。例えば、相手の声に100%集中している時、内に向かうエネルギーは0%になっている。もちろん、その逆もあるだろうし、50%ずつの割合もありえるだろう。

大切なことは、この割合に正解はないということだ。例えば、突然、相手の声のトーンが変わり、とても深刻で大切な話をしはじめたならば、その瞬間は「他者を聴く」方向に全振りしてもいいかもしれない。そうでなければ、刻一刻と心情が変わっていく相手の大切な声を取りこぼしてしまうだろう。そして、相手の話が一旦の区切りを迎えて、沈黙が訪れたタイミングで、今度は「私に聴く」に全エネルギーを向けていいかもしれない。

つまり、対話の最中、この割合は揺れ動くだろうし、揺れ動いてもいいのである。ただし、気づいたら「自分の声ばかり聴いていた」あるいは「相手の声ばかり聴いていた」という事態も起こりうる。そう考えると、この「二重の聴く」の完全なコントロールは難しいのかもしれない。

しかし、だからこそ、こうして「二重の聴く」の構造を少しでも理解しておけば、必要な場面において、「あ、いけない。自分ばかりに目を向けすぎていた。相手の声に耳を傾けよう」とか「今度は自分の内なる声に注意しよう」と、気づきやすくなるかもしれない。

真の出会いとしての対話を生きるために

さて、今回はブーバーの対話観を紹介したが、ブーバーの「真の出会いとしての対話」を生きるためには、私たちはどうすればいいのだろうか。

まず、思い返してみると、ブーバーにとっての「対話」のスタート地点は「真の出会い」であった。そこが、私たちにとって最初に気をつけられる場面である。「真の出会い」とは、単なる出会いとは違う。〈われーなんじ〉の関係において出会うことであり、他者の存在を決めつけない、ということである。もちろん〈われーそれ〉の関係も避けられない。気づくと、前面に出てくる。しかし、その都度、〈われーなんじ〉の関係に引き戻ろうとすること。つまり、その人との関係の中で「全体的な存在」として関わっていくこと。そうすることで「真の出会い」が生じる。

そして、次の地点は「沈黙」であった。沈黙が苦手な人も多いとは思うが、ここで重要なことは、沈黙を無理に埋めない、ということではないだろうか。沈黙は「対話の通過点」であり、私に訪れる「内なる声」を待つ時間でもある。普段はテンポよく返答していたところをぐっと堪えて、自分自身の内に目を向けてみる。すると、そこにふつふつと湧き上がってくるものがあるだろう。そこで「聴かれた内なる声」に応答していくこと、そこから「真の対話」は展開されていく。

また、ブーバーの対話の具体的な実践方法としては、最後に紹介した「二重の聴く」が役立つかもしれない。瞬時に自分の内に目を向けるのは難しいかもしれないが、慣れるまでは、「今何を感じてる?何を思ってる?」と素直に心の中で聴いてもよいだろう。そうすると、きちんと心は答えてくれる。反応してくれる。たえずメッセージは生じているのだから。

その上で重要なことは、聴いてしまった「内なる声」をなかったことにしない、ということではないだろうか。内なるメッセージを確認したならば、なるべく率直に言ってみる。出してみる。そうすることで、対話の場に一つの視点が増える。次の展開も広がってくる。もちろん時間的な制約や場の目的や関係性の中で、発言できない状況もあるだろう。そういう時は、忘れないようにメモを取っておいたり、時間差で取り扱うのも一つの手かもしれない。

そして、内なる声を率直に発露させていくことは、〈われーなんじ〉の関係にも繋がる。私の「ほんとうの声」は、他者の「ほんとうの声」を共振させる。よくあることだが、どちらか一方が腹を割って話し出すことで、それが連鎖する。「建前の対話」から「本音の対話」に移行するのだ。その時、その二人は〈われーなんじ〉の世界を生きていることになるだろう。

おわりに

『我と汝・対話』は難解だが、言っていることはシンプルでもある。ブーバーは、「部分的なあなた」ではなく、丸ごとの「全体のあなた」と出会い・関わりたい、と何度も言っているのである。そして、それは人間の根本欲求でもあると思われる。だからこそ、人間関係の希薄化が進む現代社会において、ブーバーの対話観は響くのかもしれない。続く第4回では、ブラジルの教育学者・哲学者のパウロ・フレイレの対話観に迫っていく。


  • ¹『我と汝・対話』著:マルティン・ブーバー, 訳:植田重雄, 岩波文庫, 1979, 7頁
  • ² 同上、15頁
  • ³ 同上、9頁
  • ⁴ 同上、9頁
  • ⁵ 同上、8頁
  • ⁶ 同上、47頁
  • ⁷ 『ブーバー対話論とホリスティック教育―他者・呼びかけ・応答 (教育思想双書 8)』 吉田敦彦,勁草書房, 2007, 79頁
  • ⁸ 同上, 50頁
  • ⁹ 同上, 50頁
  • ¹⁰ 同上(ブーバー前掲載(1), 126頁)
  • ¹¹ 同上, (吉田前掲載(7)51頁)
  • ¹² 同上, (吉田前掲載(7)61頁)
  • ¹³ 同上, (吉田前掲載(7)61-62頁)
  • ¹⁴ 同上, (吉田前掲載(7)62頁)
  • ¹⁵ 同上(ブーバー前掲載(1), 188頁)
  • ¹⁶ 同上(ブーバー前掲載(1), 189頁)
  • ¹⁷ 同上(ブーバー前掲載(1), 189-190頁)
  • ¹⁸ 同上(ブーバー前掲載(1), 167頁)

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連載

対話観を巡る旅

本連載では、私が出会い、影響を受けてきた「対話」の思想家と思われる人たちの対話観を紹介していく。同じ「対話」という言葉を使いながら、それぞれに独自の対話観を持っている面白さ。ぜひ、一つひとつの対話観に浸ってみてほしい。

本連載では、私が出会い、影響を受けてきた「対話」の思想家と思われる人たちの対話観を紹介していく。同じ「対話」という言葉を使いながら、それぞれに独自の対話観を持っている面白さ。ぜひ、一つひとつの対話観に浸ってみてほしい。

著者

古瀬ワークショップデザイン事務所 代表

ワークショップデザイナー。ファシリテーター。1988年生まれ。埼玉県戸田市出身。長野県御代田町在住(2024年3月から)。駒澤大学グローバルメディアスタディーズ学部卒業。立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科修了。学部生の頃、対話の手法「ワールド・カフェ」に出合い、対話に関心を持つ。実践と研究を繰り返す中で、対話の場づくりの依頼が増えてきたことをきっかけに2012年に独立。人が集い、出逢い、関わり合う場の設計(ワークショップデザイン)と当日の進行役(ファシリテーター)を行う。これまでに中央省庁や行政、学校、企業、NPOなど様々な分野で、年間60本ほどのペースで700回以上のワークショップや研修を実施。2020年から「対話に生きる」を軸に活動中。

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