対話は音楽である。あなたが何かを語り、私が何かを語る。二つの声が空間に響き渡り、互いに呼応し合う。そこに主旋律はない。二つの独立した声が、それぞれのメロディを奏でる。二つの異なる旋律が、同時展開される。そして、高次の統一性が生み出される...。
このように「対話」を音楽の比喩で捉えた人物がいた。ロシアの思想家・文芸評論家のミハイル・バフチン(1895-1975)である。「対話」の思想家と思われる人たちの対話観を紹介していく本連載。第2話ではバフチンを取り上げる。
彼はドストエフスキーの小説を細かく分析することで、そこに「ポリフォニー」という対話的な特徴を見出した。ポリフォニーは「多声性」とも訳されるように、多様な声が溶け合うことなく展開されている状態を指す。
この「溶け合わなさ」が、バフチンのポリフォニー論の核心だと言ってもいい。言い換えるならば、「まとめない」ということである。
一般的に対話は、異なる意見をすり合わせて、一つにまとめようとしているように思える。しかし、バフチンの対話は、まとめない。「まとめない対話」なのだ。
今は「多様性の時代」とも言われる。組織の中でも多様な声を大切にしようとする気運も高まっている。しかし、実際に多様な声が噴出してきた時、どうまとめるのか、悩む人も少なくないだろう。
しかし、バフチンの対話観は、その悩みを打ち消してくれるかもしれない。なぜなら、私たちが予め「まとめない」価値を知っていれば、「どうまとめるか」迷った場面で、「まとめない」という別の道も開けるからである。
では、さっそく、バフチンの対話観に迫ってみよう。
まとめないまとめ方
「ポリフォニー」とは何か。まずは、そこから入っていこう。そもそもポリフォニーとは、音楽用語の一つである。「複旋律音楽」とも訳され、対等な独立した複数の声部(パート)からなる音楽のことを指す。そして、バフチンは、ドストエフスキーの小説に「ポリフォニー的な特徴」を見つけ出し、ドストエフスキーの小説は「ポリフォニー小説」であるとした。彼はこう語る。
それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである。(...)それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま、何らかの事件というまとまりの中に織り込まれてゆくのである。¹
ここで注目すべきは、「融け合うことのない」という点だろう。つまり、AとBという意見があった場合、「AとBが融け合ってCになる」というような、いわゆる「弁証法の対話観」を、バフチンは採用していない。そして、ポリフォニーの本質について、こう言う。
ポリフォニーの本質は、まさに個々の声が自立したものとしてあり、しかもそれらが組み合わされることによってホモフォニー(単声楽)よりも高度な統一性を実現することにある。²
つまり、バフチンの対話は、個々の独立した声が融け合うことなく、同時展開されることで、より「高度な統一性」を生み出すのである。
ここで「弁証法の対話観」と「ポリフォニーの対話観」を私なりの解釈で図示してみよう。
例えば、AとBという相反する異なる意見があったとする。バフチンは「聞かれること自体がすでに対話的な関係である」³ と言ってるが、AとBの間には、互いの声が響き合う限りにおいて「対話的関係」が成り立っている。
「弁証法の対話観」では、AとBが混ざり合い、Cが生まれる。「ポリフォニーの対話観」では、AとBは混ざらない。Aは、Bとの対話において影響を受けることもあるだろうが、むしろ、Aの意見を発展させ「A’」になり、さらに力を強めて「A’’」となり、歌い続ける。他方で、Bも「B’→B’’」と発展しているとする。
その時、異質でありながらも、共に存在する「A’’+B’’」という、ある種の「まとまらない一つのまとまり」が「高度な統一性」を生むことがある。ここで「生むことがある」としたのは、必ずしも「高度な統一性」が生まれない場面も想定されるからである。
では、どのような時、「高度な統一性」が生まれてくるのか。それはバフチンも言っていたように、「何らかの事件というまとまりの中に織り込まれてゆく」時である。つまり、「事件」という「一つの共通項」があることで、異質な二者が結びつく。つまり、上図で示している「赤点線」こそが「事件」であり、「共通の何か」なのである。
また、この「赤点線」の範囲は拡げることもできる。「A→A’→A'’」と「B→B’→B'’」というプロセスごと囲むならば、時間的な変遷も含んだ「高度な統一性」を生み出すことができるかもしれない。
もちろん、誤解されないように言えば、弁証法の対話観によって生まれた「C」が「低度な統一性」と言いたいわけではない。AとBが融合し、これまでなかった新しい「C」が創造されることは意義深いものである。
それを踏まえながらも、私が言いたいのは、バフチンの対話観がもう一つの別の道、つまり、「まとめないまとめ方」という選択肢を増やしてくれる、という点にある。選択肢の幅が広がることで、対話の新しい展開や可能性も同時に広がるだろう。
多様な声が生じる前提
しかし、「まとめない」と言っても、その手前で多様な声が出ていなけば、元も子もない。では、多様な声が生じる前提には何があるのか。
それを考えるために、もう一度、上記で引用したバフチンの言葉を参考に、私なりのバフチンの対話観を図示してみたい。
まず、「それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま」と言っていたことを思い出すと、前提には一人ひとりの「①意識の独立性」が認められていたように思われる。
その上で、それぞれの意識世界の「②対等性」が担保される。つまり、単一の意識世界に全てが押し込められるのではなく、それぞれ独自の視野を持った意識世界同士が等価な視野の中に提示されるのである。⁴
そうすることで、一つの強い声に支配されることなく、多様な声の発露が可能となる。そして、複数の声が溶け合うことなく、異なったままに存在するような「③多声性(ポリフォニー)」が生じる。
そして、多様な声が「何らかの事件というまとまりの中に織り込まれてゆく」ことで、結果として、「④高次な統一性」が生まれてゆくのである。
簡略化された図ではあるが、このように整理してみると、多様な声が生じるためには、その前提である①②、つまり「それぞれの独立した意識世界を対等であると見なす」という認識が重要であることが見えてくる。
対等であろうとする意志
では、この「対等であると見なす」とは、いったいどういうことなのか。より解像度を上げて捉えるならば、ドストエフスキーの「主人公の言葉に対する眼差し」に対するバフチンの見解が参考になる。バフチンはこう分析した。
自分自身と世界についての主人公の言葉は、通常の作者の言葉とまったく同等の、十全の重みを持つ言葉である。その言葉は、主人公の性格造形の一つとして彼の客体的なイメージに従うわけでもなければ、作者の声のメガフォンとして機能するのでもない。作品構造の中で、主人公の言葉は極度の自立性を持っている。それはあたかも作者の言葉と肩を並べる言葉としての響きを持ち、作者の言葉および同じく自立した価値を持つ他の主人公たちの言葉と、独特な形で組み合わされるのである。⁵
難解なので噛み砕いて言い直すと、ドストエフスキーは作中の主人公を自分の都合のいいように操ろうとはしなかった。ドストエフスキーにとって主人公の言葉とは、作者の言葉と「まったく同等の、十全の重みを持つ言葉」であり、「肩を並べる言葉」であった。だからこそ、主人公は独立した一個の人格を持ち、作中でありありと生きたのである。
そして、他の登場人物に対しても、ドストエフスキーは対等であろうとした。このような「対等性の眼差し」を登場人物に向けていたからこそ、各人が自由に自分の声を発し続けることができたと言える。
しかし、そうした「対等性」とは「完全なる対等性」ではなかったことにも目を向けたい。確かに、ドストエフスキーは登場人物を対等に扱おうとした。にも関わらず、その意に反して、作者である以上その気になればいつでも、登場人物の発言を削除することができた。場合によっては、紙面から消すことで、その存在ごとなかったことにもできた。それだけの権力を持っていた、ということである。つまり、作者と登場人物の間には(当たり前のことではあるが)それだけの圧倒的な「非対等性」があったと言える。
その「非対等性」を自覚していたからこそ、ドストエフスキーは、より対等であろうと努めたのではないだろうか。つまり、そのような「対等であろうとする意志」こそが、ポリフォニーを発生させたのではないかと私は考えている。
同意の背後で蠢く異和(ラズノグラーシエ)
さて、ここで、もう一つ紹介したい概念がある。それは、目立ちやすいポリフォニー理論の背後で、日陰に隠れていた概念と言ってもいいかもしれない。というのも、実際にバフチンの著作には表立って書かれず、日記やノートに書き記されているに過ぎない概念だからである。それは「ラズノグラーシエ」(異和)と言う。
私は、文芸評論家・山城むつみの『ドストエフスキー』(2010, 講談社)を通して、この概念と出会った。「ラズノグラーシエ」(異和)は、表面上の「同意」の背後で蠢いている。対話する二人が同じ言葉を発して、あたかも「同意」しているかに見えたとしても、それが誰の口から発せられるかで、その意味が変わってしまう。そうした「同じ言葉の背後に生じてしまう意味のズレ」こそが、ラズノグラーシエである。例えば、山城は、分かりやすい例を挙げて、こう説明する。
自分で私はバカだと言うのと、他人が「おまえはバカだ」と言うのと、指している事柄、言わんとしている意味は全く同じなのにニュアンスは反対になってしまうはずだ。では、どうしてそういうことになるのか。言った言葉の内容のためではない。言い方のためでもない。意味(内容)も言い方(形式)も全く同じであってさえ、その言葉を発するのが自分の口なのか他人の口なのかによって全く別の価値を持ってしまう。⁶
つまり、その言葉が「誰の口から発せられるか」が問題であって、それ次第で言葉の意味は変わる。言われてみれば、当たり前のことかもしれない。しかし、当たり前になっている現象ほど、近すぎて気づきにくいことも多い。
だが、バフチンはそれに気づいた。例えば、ドストエフスキーの長編小説『カルマーゾフの兄弟』の中では、父親を殺したのは「あなた(おれ)じゃない」という言葉が、様々な登場人物の口から発せられる。表面上の言葉は同じでも、その背後にあるニュアンスは、誰が発言するかで異なり、多様である。そこにバフチンは注目したのである。
それゆえ、バフチンは、対話におけるカテゴリーを「同意」「不同意」「異和」の三つに区別することになる。バフチンはこう言う。
対話の最も重要なカテゴリーとしての同意(soglasie/ソグラーシエ)。同意の外見とニュアンスは豊かで多様(基音とその倍音)。音楽の並行性。不同意(nesoglasie /ニェソグラーシエ)は貧しく非生産的。異和(raznoglasie /ラズノグラーシエ)はより本質的。それは本質において同意へと引かれている。そこでは複数の声が多様であること(raznost')、融合して一つにならないということが保持されているからだ。⁷
注目すべき点は、バフチンにとって「ラズノグラーシエ」(異和)こそが「より本質的」だと捉えられていた点だろう。さらにこう続ける。
同意は決して機械的あるいは論理的な同一性になることがない。同意は木霊ではないのだ。同意の背後では常に隔たりが克服され近さが実現されている(だが、融合して一つになるのではない)。⁸
これもまた難解な言い回しだが、興味深いのは「同意は決して機械的あるいは論理的な同一性になることがない」と断言していることだろう。「同意」と言うからには、全くの「同一」や「一致」をイメージすることもできるが、バフチンは「同意は木霊(こだま)ではない」と言う。ここで言う木霊とは、声や音が山や谷などに反響して返ってくる山びこのことを指す。つまり、同意とは「二つの同じ声」ではない。そして、決して「同一性になることがない」声であり、「融合して一つになるのではない」声なのである。
さらに面白いのは、全く同じ意見だからこそ、自分の口ではなく、相手の口から言われてしまうことで、逆にそれが受け入れられない、という事態が時々起こることである。これは、先ほど取り上げた『カルマーゾフの兄弟』の中の「あなた(おれ)じゃない」という言葉に最も端的に表現されている。山城は、こう言う(補足すると、アリョーシャとイワンは人物名であり、兄弟である)。
心の奥に秘めた自分自身の言葉が他人の口から発せられると、その言葉が抵抗と、アリョーシャに対する憎悪とをイワンに呼び起こすのだが、それは、その言葉が本当にイワンの急所を衝いたからであり、その言葉がまさしくイワンの問いの答えに他ならないからなのである。こうなると、イワンは、自分の内面の問題に対する他者の口出しを全面的に受け入れられなくなる。⁹
つまり、自分自身の奥底で密かに思っていたことが、他者から言われてしまうことで、図星を突かれた気分になり、逆に、抵抗を引き起こし、それを認められなくなるのである。少し複雑にも感じるが、振り返ってみれば、私たちの日常にもよくある現象だろう。
例えば、ちょうど子どもが自ら「勉強しよう」と思っていたところ、親から「勉強しなさい」と言われてしまったら、途端にやる気がなくなり、勉強したくなくなるかもしれない。他には、上司がずっと温めていた新規事業のアイデアがあって、それとほぼ同じアイデアを部下から先に提案されてしまった時、「同意」にも関わらず、つい反発したい気持ちが起こってしまうかもしれない。
つまり、磁石の同じ極が、同じであるがゆえに反発してしまうように、「同意」は、時に斥力(せきりょく)を引き起こすのである。これが、バフチンが発見した「ラズノグラーシエ」という現象であり、ドストエフスキーの小説に見出したことであった。
まとめない対話を活かすために
さて、第2話ではバフチンの対話観を紹介してきたが、私たちの現場では、どのように活かせるのだろうか。
一つ目に、多様な声を大切にしたい場面において、「対等であろうとする意志」は大切だろう。例えば、会議において、その場を設定したり仕切る存在は特に重要であるが、その存在が、どんな声も対等に扱おうとしてるかどうかで、「多様性の幅」は決まる。ある声が即座に評価されるようなことがあれば、参加者は評価を気にするようになるし、逆に、どんな異質な声も丁寧に扱われるならば、人は「話そう!」という気になるだろう。
二つ目に、バフチンのポリフォニーを「まとめない対話」として捉えるならば、冒頭でも述べたように「どうまとめるか」という問い自体がなくなる。そこから生まれるのは「まとめないまとめ方」という別の選択肢であり、結果として「高度な統一性」が生まれるかもしれない。そして、「高度な統一性」が生まれるためには、異質な者同士を結びつける「何らかの事件というまとまり」が必要なのであった。
これは、例えば、お祭りの出店をイメージしてみると分かりやすくなるかもしれない。焼きそば屋があり、たこ焼き屋があり、かき氷屋があり、金魚すくいや射的もある。それぞれは異質な存在でありつつも、「お祭り」という事件(共通項)によって、ある種の「高度な統一性」を帯びていると言えるだろう。
つまり、「まとめないまとめ方」とは、ただ単に「多様な声」を野放しにしておくのではなく、むしろ、積極的に、異質なまま〈ともに〉存在できる「場」を用意することである。ここで言う「場」とは、小説の場合は「事件」であったが、拡張して「共通の文脈を持つコンセプト」と言ってもいいだろう。要するに、異質なもの同士が〈ともに〉存在できる地盤さえ確保できれば、ポリフォニー状態は維持されうるのである。
三つ目に、「ラズノグラーシエ」(異和)の活かし方について、私なりの考えを置いておこう。何と言っても「ラズノグラーシエ」の概念の良さは、私たちに「言葉に完全な同一性などない」という事実を思い出させてくれる点であろう。
全く同じ言葉を使って同意していても、完全な一致はありえない。つまり、この概念を心に留めておくと、表面上の「同意」に注意深くなれる。そして、「同意」の背後にある「多様な意味」に目が向くようになる。
例えば、ある会議で何かが決まりかけた時、「同意」の背後に蠢くラズノグラーシエ(異和)を感じてしまったならば、各人の「同意」の背後にあるものを確認することもできる。もちろん「完全な同一性」は原理的にありえないのだから、どこかで折り合いをつける場面もあるだろう。しかし、改めて背後にあるものを確認し合うことで、互いの理解はより深まるに違いない。
おわりに
私には、バフチンのポリフォニーの対話観は「安易にまとめるな!」「差異のまま突き進め!」と言ってくれているように感じる。そして、本連載もまさにポリフォニー的に歩んでいきたいと思っている。つまり、「対話観を巡る旅」という共通の地盤において、異なる対話観が同時に歌われることで、「高次な統一性」が生まれてくることを願っている。続く第3話では、宗教哲学者のマルティン・ブーバーの対話観に迫っていく。
- ¹ 『ドストエフスキーの詩学』著:ミハイル・バフチン, 訳:望月哲男・鈴木淳一, ちくま学芸文庫, 1995, 15頁
- ² 同上, 45頁
- ³ 『ことば 対話 テキスト——ミハイル・バフチン著作集8』著:ミハイル・バフチン, 訳:新谷敬三郎・伊東一郎・佐々木寛, 新時代社, 1988, 238頁
- ⁴ 同上(バフチン前掲載(1), 34頁)
- ⁵ 同上(バフチン前掲載(1), 16頁)
- ⁶ 『ドストエフスキー』山城むつみ, 講談社, 2010, 22頁
- ⁷ 同上, p36
- ⁸ 同上, p36
- ⁹ 同上, p25