パウロ・フレイレの言葉は、熱い。情熱的である。そして、力強い。生命力を感じる。
それは、やはりフレイレ自身が、抑圧の只中を生きたことが大きいだろう。主著である『被抑圧者の教育学』¹も、当時独裁政権下にあったブラジルから他国に亡命する中で執筆されている。祖国を追放され、言論の自由が抑圧されている中でも、彼は執筆を続けた。
つまり、声を発し続けたのである。その声は、同じように抑圧された世界中の人々を勇気づけ、連帯させた。
そんな熱い人物が、今回の主人公だ。「対話の思想家」と思われる人たちの対話観を紹介していく本連載。第4回では、パウロ・フレイレの対話観を取り上げる。パウロ・フレイレ(1921〜1997)は、ブラジルの教育学者であり、一般的には「識字教育の実践家」としてよく知られている。しかし、単なる識字教育者ではない。
フレイレの識字教育は、読み書きを教えるだけでは終わらない。その活動の真の目的は、抑圧された人々が、読み書きを通して、自分の置かれている状況をより理解し、現実をより良いものに変えていくことだった。
そして、その歩みの中で最も重視していたことが「対話」であった。私は『被抑圧者の教育学』の目次を初めて見た時、「対話」という言葉の多さに驚いたものだった。気づくと、私はパウロ・フレイレを「対話の思想家」と見なし始めていた。
さらに、読み進めていくと、もう一つの重要なキーワードに気づかされる。それは「変革」という言葉である。フレイレは、対話を通して、変革をめがけていた。だからこそ、思い切って私はフレイレの対話観を「変革のための対話」と名づけてみたい。では、さっそく見ていこう。
変革のための対話とは
「変革」と「対話」。この二つのキーワードについて、まずはフレイレの言葉に耳を澄ませてみよう。
真実の言葉というものは、世界を変革する力がある。人間として存在するということは世界を言葉に出して主体的に肯定して引き受け、その上で世界を変えていくことである。²
まさに「変革」という言葉が登場するこの一節の中に、フレイレの言葉への強い信頼と人間観が感じられる。真実の言葉には、世界を変革する力がある。現実を言葉にして捉え、引き受けるところから、世界を変革していける。フレイレがそう強く信じていることが伺える。
また「対話」について、その目的を語った一文もある。読んでみよう。
対話のねらいは、どんな知識であれ(...)、おのれの知識をその知識の源であり、かつまた、照射すべき対象でもある具体的現実とのかかわりにおいて問題化し、現実をより深く理解、説明し、変革することにあるのである。³
フレイレにとっての対話は、現実の理解や説明では終わらない。現実を認識した上で、現実を変革するまでが、射程に入っているのである。つまり、フレイレの対話は最終的には「変革」を目指している。だからこそ、「変革のための対話」と言えるのである。
では、そのような「変革のための対話」とは、いかなるプロセスなのだろうか。フレイレを語る上では欠かせない、もう一つの概念「意識化」にも迫ってみたい。
「意識化」という言葉に込められたもの
まず、私たち日本人が「意識化」と聞けば、読んで字のごとく、これまで意識していなかったことを意識すること。そういう意味だと考えるだろう。
しかし、フレイレにとっての「意識化」には、それ以上の意味が含まれている。もともとこの言葉は、フレイレの母語であるポルトガル語では、「conscientização」と表現されていた。だが、この言葉が英語に翻訳されるにあたって、「conscientization」という英単語が当てられた時、フレイレは反発したそうである。マサチューセッツボストン大学のドナルド・マセドは、次のように紹介している。
フレイレはこの言葉を当初は「ごめんだね。なんで訳語を受け入れないといけないのか?『ストレス』という言葉を受け入れたくないが受け入れないといけない。そういうふうに受け入れられているのに、なぜ『意識化:conscientização』が受け入れられない?」と言って、英語に訳されることを拒否していたくらいである。⁴
つまり、ポルトガル語「conscientização」には、英語「conscientization」には変換しえないニュアンスが込められている。もちろん、日本語の「意識化」という訳語においても、厳密な変換はできていないだろう。では、どんなニュアンスなのか。マセドは、フレイレの意を汲んで、「conscientização(意識化)」を次のように説明する。
「意識化」という言葉の不可解さの理解には被抑圧者の自らの言葉を取り戻し声を発するというプロセスがどうしても含まれていなければならず、(...)それは、被抑圧者が自らの言葉を話すために取り戻すべき権利であり、「自分自身になるための権利、自分の運命を自分で決める権利」なのである。⁵
要するに、フレイレの「意識化」とは「単に意識的になること」以上に、被抑圧者が自らの声を取り戻し、自分自身を生きていくための権利の行使でもあった。そして、それらの声は「抑圧のメカニズムを暴くもの」⁶でもあった。「意識化」とは、そのような意味において捉えられなければならない。
少し話が複雑になってきたので、ここで、私なりに「変革のための対話」を以下に図示してみたい。

まず、現実としての「抑圧状態」がある。そうした「現実を理解する」ために「読み書きの習得」がある。「読み書きの習得」への移行は、現実から距離を取るために必要な動きとなる。
ただし、現実の理解だけでは終わらない。疑問に思ったことや不当に感じることがあるならば、「声を挙げる」こと。そして、現実を変革をするために実際に「行為する」こと。そうすることで「現実が変革される」。
このようにフレイレの対話は「抑圧からの解放」を目指し、「自分自身を生きていく」ことを目的にしている。だからこそ、何度も言うが、フレイレの対話は「変革のための対話」なのである。
対話に必要な5つの条件
さて、「変革」や「対話」、そして「意識化」といった大きなモチーフを把握したところで、「対話に必要な5つの条件」を紹介しよう。フレイレは『被抑圧者の教育学』第三章の中で、畳み掛けるように「対話」について言及する。フレイレが掲げる条件は、以下の5つである。一つずつ見ていこう。
- 愛
- 謙虚さ
- 人間への信頼
- 希望
- 批判的思考
対話の条件(1):愛
まず、最初に登場するのが「愛」である。フレイレは、こう言っている。
世界と人間に対して深い愛情のないところに対話はない。(…)愛は対話の基礎であり、同時に対話そのものでもある。お互いの主体的な関係のうちに立ち上がるものであり、支配したりされたりする関係のうちに生まれるものではない。⁷
特に最後の「支配したりされたりする関係のうちに生まれるものではない」という部分に、フレイレにとっての愛のニュアンスが感じられる。この文章の後で、「人が人に抑圧されている状況に本当の愛はない」⁸とも述べるが、フレイレはここでも一貫して「抑圧からの解放」をめがけていたことが分かる。
対話の条件(2):謙虚さ
次に出てくるのが、「謙虚さ」である。
謙虚さのないところにも対話はない。人間というものが続いていくこの世界を“引き受ける”ためには傲慢であってはならない。対話は人と人がお互いに出会い、お互いの知恵を共有するような行為だから、どちらか一方が謙虚さをもたなければ、対話として成り立たない。⁹
この文章の中で、私が注目したいところは「どちらか一方が」と言っている点である。もちろん、対話する二人の「両方に」謙虚さがあるに越したことはない。しかし、相手が傲慢な場合もあるだろう。逆に、立場の違いから自分が傲慢になってしまうこともあるだろう。その時、少なくとも私の側に謙虚さがあれば、対話の糸口は開かれ続ける。
また、「謙虚さがなかったり、謙虚さを失ったりしてしまえば、他の人たちに近づくことはできない」¹⁰とも言っているように、フレイレにとっての「謙虚さ」は「他者に近づくための作法」でもあった。
対話の条件(3):人間への信頼
3つ目は、「人間への信頼」である。「人間という存在に深い信頼がなければ、対話は成立しない」¹¹と明確に述べた後、フレイレは「信頼」についてこう説明する。
人間はなにかをすることができ、また再び何らかの行為に向かうものである、ということへの信頼。創造し、再創造する力への信頼。人間はよりよきもの、全きもの目ざすものである、ということへの信頼であり、また人間のそのような力は一部のエリートだけの特権としてあるのではなく、すべての人の権利としてあるのだ、ということへの信頼、のことである。¹²
フレイレの「人間への信頼」は、多義的で含みがある。つまり、多様な意味と願いをこの「人間への信頼」という言葉に託していたように感じる。また、「人間への信頼は対話の“先駆的”与件とでもいおうか」¹³とも言っているように、「人間への信頼」は対話の大前提となっている。
対話の条件(4):希望
4つ目は、「希望」である。「希望のないところには対話もない」¹⁴と断言し、「対話と希望との関係」についてこう語る。
対話というものは、“よりよき存在”に近づきたいとする人間同士の出会いなのであるから、絶望のうちに行われるものではありえない。話す人が自分のやっていることに何の希望ももっていないのならば、対話することは無理である。¹⁵
希望が、対話を起こす。また、「希望は私を闘いへと向かわせる」¹⁶とも言っているように、フレイレの根底にはやはり「抑圧からの解放」をめがけた闘争心があったと言えるだろう。
対話の条件(5):批判的思考
最後の5つ目は、「批判的思考」である。フレイレはこう言う。
本来の意味での思考のないところには、どこまでいっても本来の対話はない。批判的に思考すること。それは、世界と人間を対立するものとしてとらえる発想を認めず、世界と人間のわかちがたい共生について考えていくことだと思う。¹⁷
フレイレは、単に思考すればいいと言っているわけではない。「批判的に」思考することが重要だと言っている。では、ここで言う「批判的思考」とは、何を意味するのだろうか。フレイレはこう述べる。
具体的にいうと、それは、現実に起こっていることを、固定されたものとしてとらえるのではなく、プロセスととらえ、常に生成されていくものとしてとらえるということでもある。¹⁸
現実は常に動いている。変わりゆく。そのことに自覚的であれ、と言っている。昨日まで善とされていたことが、今日では悪と見なされることもあるだろうし、その逆もありえる。つまり、批判的思考を働かせるとは、流転する世界に対して、常に疑いの眼差しを持つ、ということでもある。
5つの条件の位置づけ
以上がフレイレにとっての「対話に必要な5つの条件」であるが、ここで私なりに図示してみたい。

「人間への信頼」は「対話の先駆的与件」でもあったことから、大前提の土台として位置づけた。人間への信頼があるからこそ、人間同士の対話の舞台に立つことができる。その上で、要求される能力や態度こそが、「愛」「謙虚さ」「希望」「批判的思考」だと理解することができる。
私の意識こそが、方法である
さて、「対話に必要な5つの条件」を整理してみたが、フレイレが最も重視していたものは何か。私としては、「人間への信頼」ではなかったか、という気がしてくる。というのも、『被抑圧者の教育学』の最後は、こんな言葉で締めくくられるからである。
民衆への信頼、人間という存在への信頼、今よりすこしでも愛することができる世界をつくっていける、という信頼。そういうことをこの本のページのうちに、ほんのすこしでもよいから見つけてほしい。そしてそれがあなたのうちに残ってほしい、と願っている。¹⁹
ここには「信頼」という言葉が、三度も登場する。これらは全て「人間への信頼」の変形だと言ってもよいだろう。フレイレは、人間という存在の可能性を信じていた。フレイレにとって、人間とは行為に向かう存在であり、現実を変革する力があり、より善きものを目がけることができる存在であった。そして、そのような眼差しを向けていたからこそ、目の前の人は、そのような存在として存在できたのではないだろうか。
興味深いことに、フレイレは「方法とは意識そのもののこと」²⁰とも言っている。つまり、「私は人間という存在をどう捉えているだろうか」と意識することが、対話に向かっていくための一つの方法なのである。だからこそ、彼は、何度も、言い回しを変えながら「人間という存在を信じてみませんか」と訴えかけていたのである。
人間という存在を信じること。そこから対話ははじまる。信じることが、行為を生む。どんな人間にも真実の言葉を語る力がある。そういう存在として、相手を見なす時、相手はそのような存在として現われる。つまり、あの人を「対話できる存在」にするのは、私自身の意識なのである。
「批判的思考」を育むための「読み書き」
もう一つ、先ほどの「対話に必要な5つの条件」の中から、より重要だと私が思うものを挙げるならば、「批判的思考」を取り上げたい。なぜならば、フレイレが、読み書きを通して、最も育みたかった能力こそが「批判的思考」に他ならないからである。フレイレはこう言う。
文字を読み書きするということは、世界をより批判的に再読するということをふくんでいる。それは「世界を書きなおす」ための、いいかえれば世界を変革するための「旅立ち」なのである。²¹
つまり、フレイレにとって、「読み書き」は、世界を「批判的」に「書きなおす=捉えなおす」ための手段なのである。では、なぜ「読み書き」は、私たちを「批判的」にするのだろうか。
まずは、「読む」ことから考えてみたい。例えば、ある農民が、今使っている農薬が人体に悪影響を及ぼすことを、本から知ったとする。すると、今使っている農薬への「批判的思考」が自ずと立ち上がってくるだろうことは容易に想像できる。私たちは、知ることを通して、現実を批判的に見ることができる。また、フレイレは「読む」ことの具体的な一例として、こうも言っている。
同じ事件を取り扱ったいくつかの新聞記事の内容を分析してみることも欠かすことのできない重要な作業だと思う。同じ事実がなぜ新聞によってこんなに違ったふうに書かれるのか?そのようにすることで人々は批判精神を身につけ、新聞を読んだり、ラジオを聴いたりするにあたり、ただそこで流されている情報を受け取るだけの受動的な姿勢から、自由を求める意識的な主体となっていくのである。²²
「読む」ことを通して、世界は広がる。知らなかったことを知ることで、世界の見え方が変わる。世界を「批判的」に見ることができるようになる。つまり、読むことは、批判的思考に栄養を与え、その思考回路を太くさせるのだ。
では、「書く」ことはどうだろうか。日本のフレイレ研究の第一人者の里見実は、フレイレの著作『伝達か対話か』の序の中で、「書く」ことについて述べている。少し長いが、本質的なことが書かれているので、引用してみたい。
わたしたちは、時間の中に生きている。世界の中に生きている。しかし、書くという行為は、わたしたちがその中に生きている世界をいったんつきはなし、「外側から」それを見つめることなのだ。世界の中に生きているだけでは、わたしたちは世界を認識することはできない。世界にたいして距離を設定し、世界と自覚的に向かい合うことによって、世界は、はじめてその隠された相貌を、主体に向かって開示するのである。また、そうした現実の対象化こそが、世界にたいする変革的なかかわり方、既成の現実にたいする批判的な介入を可能にするのである。書くということは、つまりは現実を異化し、距離化するということに等しいのだ。²³
つまり、「書く」ということは、今生きている現実から一旦距離をとり、客観視することを可能にする。現実を引いて見ることで、私たちは現実をより「批判的」に検討することができるのである。
このようにフレイレは「読み書き」を通して、「批判的思考」を育むことを目指していた。フレイレの対話が「変革のための対話」ならば、納得のことである。フレイレに言わせれば、「批判的思考」なしに、対話はありえないし、変革もありえないのである。
現実を変革していくために
さて、今回はフレイレの対話観を紹介してきた。フレイレの「変革のための対話」を、私たちが生きていくためには、どうすればいいのだろうか。私なりの視点を3つ挙げたい。
まず1つ目に、「抑圧」は誰にでも関係のある話だと、考えてみる必要があるだろう。フレイレは、軍事独裁政権下という「強い抑圧」の中を生きていた。だからこそ、「抑圧からの解放」が目指されたのも分かる。それに比べると、私たちは、そのような「強い抑圧」の中を生きているわけではない。
しかし、私たちも、日常のあらゆるところで「気づきにくい抑圧」が存在するように思われる。例えば、家庭の中で、子どもが「いい大学を目指しなさい」と言われ続ければ、そこに抑圧状態が発生するかもしれない。気づくと「いい大学を目指さなければならない」という強迫観念が生まれ、抑圧の内面化が起こるかもしれない。
他にも、学校での抑圧、会社での抑圧、コミュニティでの抑圧など、考えてみれば、いろんな場所で抑圧の影が潜んでいることが分かる。気づかぬうちに、抑圧されている可能性もあれば、逆に、自分が抑圧する側になっていることもあるだろう。だからこそ、まずは、もしかしたら今、私は「抑圧」関係にいるのかもしれない、と疑いの目を持つこと、まずはそこからはじめられるのかもしれない。
2つ目には、フレイレもそう考えたように、「批判的思考」を養うために「読み書き」に取り組むのも良いだろう。例えば、自分の置かれている現実を理解するために、なるべくたくさんの本を「読む」こと。現代社会では、動画を「見る」ことや、音声メディアを「聴く」ことも、世界を再認識することの一つにもなるだろう。
そして、「書く」こと。里見も言っていたが、「書く」ことで、世界と距離を取ることになる。書くうちにより正確な表現を追い求めはじめる。書きながら、自分の考えが整理される。客観視できることで、そこに批判精神も宿る。さらには、書いたことをSNSやブログなどで発信してみることで、他者からの反応やフィードバックがもらえるかもしれない。そうすると、自分に閉ざされていた世界が開かれ、「批判的思考」も育っていく。
3つ目には、「変革」を目指して、実際に「行為する」ことだ。現実を理解しただけで満足してはいけない。変えたい現実を捉えたならば、勇気を持って、声を挙げること。身近にいる信頼できる一人でもいい。たった二人からはじまった小さな対話が、大きなうねりを作り出し、社会を変えていくこともありえるかもしれない。もちろん、そんなに大きなことを考えなくてもいい。家庭の中で、学校の中で、会社の中で、気づいた些細なことを誰かに言ってみること。そうすることで、現実が少しずつより良い方向に向かっていくかもしれない。ともかく、諦めないことだ。小さな声の積み重ねこそが、現実をつくっていくのだから。
おわりに
今回、パウロ・フレイレの対話観を「変革のための対話」と名づけてみたが、「変革」と言うと、ついつい大きなイメージを持ってしまうかもしれない。しかし、考えてみれば、「小さな変革」は日常にも溢れている。もし、あなたが「今いる現実を少しでも変えたい」と願うならば、フレイレの言葉は、あなたを支えてくれるに違いない。フレイレは、あなたが現実を変えていける力を既に持っていると強く信じている。さて、続く第5回では、フレイレと同じように亡命しながらも思索を続けた、ドイツ出身のアメリカの哲学者ハンナ・アーレントの対話観に迫っていく。
- ¹『被抑圧者の教育学 50周年記念版』著:パウロ・フレイレ, 訳:三砂ちづる, 亜紀書房, 2018
- ² 同上, 172頁
- ³ 『伝達か対話か―関係変革の教育学―』著:パウロ・フレイレ, 訳:里見実, 楠原彰, 桧垣良子, 亜紀書房, 1982, 194頁
- ⁴ 同上(ドナルド・マセド, 前掲載(1), 32頁)
- ⁵ 同上(ドナルド・マセド, 前掲載(1), 32頁)
- ⁶ 同上(ドナルド・マセド, 前掲載(1), 32頁)
- ⁷ 同上(フレイレ, 前掲載(1), 174頁)
- ⁸ 同上(フレイレ, 前掲載(1), 175頁)
- ⁹ 同上(フレイレ, 前掲載(1), 176頁)
- ¹⁰ 同上(フレイレ, 前掲載(1), 177頁)
- ¹¹ 同上(フレイレ, 前掲載(1), 177頁)
- ¹² 同上(フレイレ, 前掲載(1), 177-178頁)
- ¹³ 同上(フレイレ, 前掲載(1), 178頁)
- ¹⁴ 同上(フレイレ, 前掲載(1), 180頁)
- ¹⁵ 同上(フレイレ, 前掲載(1), 180頁)
- ¹⁶ 同上(フレイレ, 前掲載(1), 180頁)
- ¹⁷ 同上(フレイレ, 前掲載(1), 181頁)
- ¹⁸ 同上(フレイレ, 前掲載(1), 181頁)
- ¹⁹ 同上(フレイレ, 前掲載(1), 361頁)
- ²⁰ 同上(フレイレ, 前掲載(1), 125頁)
- ²¹ 『希望の教育学』著:パウロ・フレイレ, 訳:里見実, 太郎次郎社エディタス, 2001, 57頁
- ²² 同上(フレイレ, 前掲載(1), 245頁)
- ²³ 同上(里見実, 前掲載(3), 6-7頁)