はじめに
ここ数年、「対話」にまつわる様々な活動がより活発になってきている。例えば、教育分野では「主体的・対話的で深い学び」が重要視され、「哲学対話」や「対話型鑑賞」なども組織の研修だけではなく、広く一般向けにも開催されている。
私は、フリーランスのワークショップデザイナー・ファシリテーターであり、約16年間、「対話」の活動と探究を続けてきた。その中で「対話とは何か」を問い続け、自分自身の対話観も、その都度、更新してきた。
本連載では、私が出会い、影響を受けてきた「対話」の思想家と思われる人たちの対話観を紹介していく。同じ「対話」という言葉を使いながら、それぞれに独自の対話観を持っている面白さ。ぜひ、一つひとつの対話観に浸ってみてほしい。
一つの対話観から現実を眺める時、そこで起こっている対話の見え方も変わってくるはずだ。「観」は、見え方・捉え方を変える。そして、「複数の観」を持つことで、現場で起こっている「対話」が、より多義的に多層的に見えてくるだろう。
第1話では、アメリカの理論物理学者デヴィッド・ボーム(1917-1992)の対話観を紹介する。ボームは、対話を「意味の流れ」として捉えた。詳しくは本編で述べるが、考えてみれば、私たちに起こる問題の多くは「意味の滞り」から発生しているようにも思える。
例えば、情報共有の不足、フィードバックの不足、コミュニケーションの不足、どれもが「意味の滞り」であり、そのせいで、新しいアイデアの創発やコラボレーション、変容、成長、学習などの可能性に蓋をしているとも言える。
ボームの対話観を知ることで、「意味の滞り」に気づき、その原因に対処しやすくなるかもしれない。また、ボームの「保留」という概念は、実際の対話の場面でどう振る舞えばいいのか、という「実践的な構え」も提供してくれるだろう。
それでは、対話観を巡る旅へ、出発してみよう。
「意味の流れ」としての対話
対話とは何か。その答えには、古今東西さまざまな表現があるが、ボームは、著書『ダイアローグ』(2007, 英治出版)の中で、「対話」(dialogue)の語源に遡りながら、ある一つの対話観を伝えた。
「対話」という言葉に、私は一般に使われているものといくらか異なった意味を与えたい。意味をより深く理解するには、言葉の由来を知ることが役立つ場合が多い。「ダイアローグ(dialogue)」はギリシャ語の「dialogos」という言葉から生まれた。「logos」とは、「言葉」という意味であり、ここでは、「言葉の意味」と考えてもいいだろう。「dia」は「〜を通して」という意味である。(…)この語源から、人々の間を通って流れている「意味の流れ」という映像やイメージが生まれてくる。[p44]
つまり、ボームにとっての対話とは「意味の流れ(frow of meaming)」なのである。例えば、円錐を想像した時、上から見ると丸に見え、横から見ると三角にも見える。それを対話に置き換えてみると、「私には丸に見えているのですが、どうですか?」と投げかけたり、「私には三角に見えています」「なぜ違って見えるのでしょう?」と応答したりすること、つまり、それぞれの立場から見えていることを率直に出し合いながら、私から見えている景色を互いに見せ合うこと。意味を通し合うこと。これが対話である。
さらに、ボームは「ダイアローグ」を「ディスカッション(discussion)」という言葉と比較することで、「対話」の意味を浮き彫りにしようとする。
「ディスカッション」は「打楽器(percussion)」や「脳震盪(concussion)」と語源が同じだ。これには、物事を壊す、という意味がある。(…)ディスカッションはピンポンのようなもので、人々は考えをあちこちに打っている状態だ。そしてこのゲームの目的は、勝つか、自分のために点を得ることである。[p45]
補足すると、「dis」は「すっかり、徹底的に」という意味。「cuss」は「打つ、たたく、ゆさぶる」という意味がある。つまり、ディスカッションからは、その語源からして「徹底的にたたく」というニュアンスも生まれてくる。続いて、ボームはこう述べる。
対話では勝利を得ようとする者はいない。もし、誰かが勝てば、誰もが勝つことになる。対話にはディスカッションと異なった精神がある。対話では点を得ようとする試みも、自分独自の意見を通そうとする試みも見られない。それどころか、誰かの間違いが発見されれば、全員が得をすることになる。(…)対話には、ともに参加するという以上の意味があり、人々は互いに戦うのではなく、「ともに」戦っている。つまり、誰もが勝者なのである。[p45-46]
こうしてボームは「意味の流れ」としての対話観を打ち出したのであった。
対話の目的は、よく見ること
では、こうした対話には、どんな目的があるのか。ボームは、こう言う。少し長いが、引用してみたい。
対話の目的は、物事の分析ではなく、議論に勝つことでも意見を交換することでもない。いわば、あなたの意見を目の前に掲げて、それを見ることなのである。──さまざまな人の意見に耳を傾け、それを掲げて、どんな意味なのかよく見ることだ。自分たちの意見の意味がすべてわかれば、完全な同意には達しなくても、共通の内容を分かち合うようになる。ある意見が、実際にはさほど重要でないとわかるかもしれない──どれもこれも想定なのである。そして、あらゆる意見を理解できれば、別の方向へもっと創造的に動けるかもしれない。意味の認識をただ分かち合うだけということも可能だ。こうしたすべての事柄から、予告もなしに真実が現れてくる──たとえ自分がそれを選んだわけではなくても。[p79]
つまり、意見を目の前に掲げて、それを見ること。これが、ボームの対話である。そして、あらゆる意見を分かち合えれば、どれか一つに同意しなくても、私たちは共通の内容を分かち持つことになる。そこから新しい意味が生じてくる。そうボームは言っている。
想定を保留せよ
しかし、言うは易く、行うは難し。自分と真っ向から反対する意見と出会った時、つい反射的に反論してしまったり、相手を敵対視してしまったり、自分の意見を固持しすぎてしまうこともあるだろう。そこで、ボームは「保留」という実践的な方法を提示する。
どんなグループにおいても、参加者は自分の想定を持ち込むものだと、ここまで述べてきた。グループが会合を続ければ、そうした想定が表面化してくる。そこで、このような想定を持ち出さず、また抑えもせずに、保留状態にすることが求められる。そうした想定を信じるのも信じないのも禁止だし、良いか悪いかの判断をしてもいけない。[p68]
ここで言う「想定」とは、英語で「assumption」(アサンプション)であるが、ボームの他の著作、例えば、『ボームの思考論』(2016, コスモス・ライブラリー)では「思い込み」とも訳される語である。
つまり、あらゆる意見は、どれもこれも「想定」であり、「思い込み」でもあるから、それらを常に「保留状態」にしましょう、と言っている。そして、ボームの保留は「意見の保留」に留まらない。
人は腹を立てたとき、怒りの感情を表に出すのが普通であり、相手に対して不快な言葉ぐらいは吐くかもしれない。そうした反応を保留状態にすると考えてみよう。腹の立つ相手を、今度は表立って侮辱しないだけでなく、心の中に生まれた侮辱の気持ちも保留状態にするのだ。たとえ表面的には相手を侮辱しなくても、内心では侮辱しているものである。そうした気持ちも保留状態にしておく。自分の気持ちをあらわにせず、振り返ってみることにする。観察できるように、感情を目の前に掲げると考えてもいい──まるで鏡の前にいるかのごとく、自らの感情を検討してみよう。[p68]
要するに、ボームは、感情や気持ちも保留せよ、とも言っているのである。
「自己受容感覚」を覚まし、「必要性」まで遡る
では、なぜ保留しないといけないのだろうか。それについて、ボームは「想定を保留状態にする目的は、自己受容感覚を可能にするのを助けるためだ」[p77]と言っている。
この「自己受容感覚」とは神経生理学の用語であるが、「体は自分の動きを自覚できる」ということである。例えば、右手を挙げたならば、「ああ、右手が挙がっているな」と自分で自らの体の動きを自覚することができる。
ボームの発想が特異なのは、(身体と同じように)思考にも自己受容感覚があるのではないか、と考えた点である。つまり、意見や感情を保留状態にすることで、その背後に何があるのか、どこから湧いてきているのか、遡ることができる。
そして、思考を遡っていくと、「必要性」というものが表れてくると、ボームは言う。
必要性とは、最強のエネルギーなのである──やがてはすべての本能を打ち負かしてしまう。何かを必要だと思えば、人は自衛本能などのあらゆる本能に逆らっても、衝動のままに行動するだろう。[p72]
こうして、自分の奥深くにある「必要性」まで自覚することができたならば、「これは絶対に必要だろうか?」と問い直すことも可能になるし、必要性と折り合いをつけて、調整することもできるかもしれない。これが、ボームの「保留」の狙いなのだ。
ここまでの話を私なりにまとめると、以下のような図と流れになる。
①:自分の意見や感情を「保留」状態にする。
②:「思考の自己受容感覚」が起動する。背後にあった思考回路が見えてくる。
③:「必要性」まで辿り着くと、それを自覚的に取り扱うことが可能となる。
ボームの対話観から見えてくること
「意味の流れ」という対話観を持つことで、見えてくる現実も少し変わってくる。
例えば、会議の場面。Aさんだけが発言していないとする。その時、Aさんの意見(=意味)はAさんの内に留まっており、場に流れ出ていない、と見ることができる。そこで、Aさんに話を振り、Aさんの意見が場に出てきたとしたら、意味が場に流れる(=対話が起こる)ことを促した、とも言えるだろう。
「意味の流れ」という対話観を持つことで、実際の場面でも「意味の流れ」に目を向けることができる。どこで意味が滞っているのか、意味が流れるにはどうすればいいのか、と問うこともできる。それらの問いから「意味の流し方」は無数に生まれてくるだろう。
また、「保留」という概念を心に留めておくことで、仕事や日常生活において、不毛な対立を避けることができる。ボームが言うように、意見は「どれもこれも想定なのである」と思うならば、自分の意見だけに固執しないで済むからである。自分の意見を括弧に入れて保留状態にしながら、相手と関わっていくこと。そうすることで、穏やかで建設的な対話もできるだろう。
おわりに
さて、ボームの対話観を通過した私たちは、最後にこう問わなければならない。「ボームの対話観も保留しましょう」と。それこそ、ボームの「意味の流れ」に則って、「対話」という意味を固定化せず流していくためにも、次の思想家の対話観に出かけていこうと思う。第2話では、ロシアの文芸評論家のミハイル・バフチンの対話観に迫っていく。