限られた専門家だけでなく、実際の利用者や利害に関わる人々が積極的に加わりながらデザインを進めていく「コ・デザイン(Co-Design)」というアプローチがあります。『いっしょにデザインする コ・デザイン(協働のデザイン)における原理と実践(仮)』を今秋に出版予定の上平︎崇仁さんによる連載の第3回目では、コ・デザインの必要性を考えるときに検討するべき4つの視点のうち、「問題の違い」「かかわり方の違い」について紹介していきます。
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「いっしょにつくる」ことが、予定調和を超えたデザインの可能性を示す:連載「コ・デザインをめぐる問いかけ」第2回
目次
取り組む「問題の違い」から考えてみる
厄介な問題にいかにしてアプローチするか?
人々の「かかわり方」からとらえてみる
なぜコ・デザインが必要になるのでしょうか。必要性を考えるためには、視点ごとに何が違うかをおさえていくことが有効です。コ・デザインの必要性は、「問題の違い/かかわり方の違い/アプローチの違い/ミッションの違い」の4つの視点から整理できます。本稿では、「問題の違い」「かかわり方の違い」について検討してみます。
取り組む「問題の違い」から考えてみる
何よりもまず、今の社会ではデザインの対象が広がり、難しい問題が飛躍的に増えている点が挙げられます。一言で「問題」と言っても多様なものがありますが、一般的に「デザインの問題」は、その特徴から、大きく3つのタイプに分けられます。「シンプルな問題」、「複雑な問題」、そして「厄介な問題」です。それぞれの質に焦点を当てて、それらの違いを見てみましょう。例では、読者のみなさんが第三者的な視点で考えられるように、X町に住むA氏を主役にしてみます。
1)シンプルな問題(Simple problem)
「A氏は自分の経営するお店の中がなんだか暗いことに気付いた。お客さんに明るい印象を持ってもらうためにはどうすればいいか?」
この場合、解決すべき問題と解決方法がそれぞれ明確に定義できます。「暗い」のは、光量の不足や内装による印象の問題です。壁の色を明度の高いものに変える、照明のワット数を上げる、または外光を取り入れたリフォームを行う、などのいくつかの解決方法によって、明るい印象をつくりだすことができるでしょう。A氏が解決したいことは明確ですので、業者に代行してもらうという選択肢もありそうです。このような問題は「シンプルな問題」と呼ばれます。変数が少なく、具体的な解き方も出そろっており、客観的な正誤の判定が可能なタイプの問題です。
2)複雑な問題(Complex Problem)
「A氏らは店の経営の合間に、地域振興の市民団体を運営している。X町への観光客を増やすためには、何ができるだろうか?」
お店の中から外の地域コミュニティへと、枠組みが広がりました。解決すべき課題も解決方法も複雑で、それぞれを定義しないことには議論も始められません。X町でお客さんを呼べるような観光資源やコンテンツは何か、そして自分たちのスキルや予算はどのくらいあるのか、そういった要素を洗い出した上で自分たちのできる範囲との接点を摺り合わせ、さらに実行していくマンパワーも必要になります。こういったものは容易には解けない「複雑な問題」です。しかしながら「観光客数の増加」という指標は明確ですので、それが「できた」か「できなかった」かについての客観的に判定を行うことはできそうです。複雑な問題は、試行錯誤に時間はかかっても、何からの方法で答えに到達できるタイプの問題です。
3)厄介な問題/意地悪な問題(Wicked Problem)
「X町は急激な人口減少が進んでいる。A氏たちはどんなまちづくりをすべきか?」
さらに視点をX町の人口減少という社会問題へと移します。多くの日本の自治体が同じ問題を抱えていますが、これには複合的な要因が考えられます。問題の枠組みをとらえる人ごとに切り取られるものは異なり、何が問題なのかを定義することすら困難です。このように非常に多数の因果関係が絡み合っていて、解けそうもない問題は、「Wicked Problem(ウィキッド・プロブレム)」と呼ばれます。日本語では「厄介な」または「意地悪な」問題と訳されます。この言葉を作った数学者のホルスト・リッテルは、厄介な問題の10の特徴を挙げています。
1)正解がない、2)「解けた」という状態が見分けられない、3)客観的な正誤は存在せず、まあまあ好ましい(better)か、好ましくない(worse)としかとらえられない、4)テストするすべがない、5)どんな解決策も一時的な操作にすぎない、6)要素分解できず、操作しようにも説明するすべがない、7)それぞれが他に存在しない固有の問題である、8)別の問題の症状として発現している。逆に言えばどんな解決を行っても、新たな問題が生じることは避けられない、9)さまざまな切り口で説明できても、全貌はつかめない、10)でも、計画する者は間違いを許されない。
ポストイットを思わず投げ出したくなるような、文字通りの意地悪な特徴ばかりです。X町の場合でも、自力で産業を起こすのか、誘致するのか、海外から他の国の人を呼ぶのか、近隣と合併するのか、はたまた集団移転するのか、なんとか解決案を決めて実施したところで、往々してその解決案はまた別の問題を生んでいくものです。だからといってリスクを恐れて何もしないでいると、その間にも事態は刻々と悪い方向に進んでいきます。正しさや間違いを判定できるような客観的な指標は存在しません。つまり「正解はない」のです。それゆえ、「厄介な問題」と「複雑な問題」は区別されます。
さらに輪をかけて難しいことは、厄介な問題を、人々に説明することもまた厄介だ、ということです。単純にとらえることができない出来事は、その人の中にある思い込みによって受け止め方が大きく変わります。たとえば、新しい取り組みをはじめようと仮説ベースの案を出している人に対して、執拗に前例や根拠を求める人がいます。リスクがゼロでなければ首を縦に振らない人もいます。どこかに悪者がいてコントロールしていると思い込む人がいます。すべてを一つのパターンでとらえてしまう人々に対して、〈正解がない〉、〈すべての人が満足することはない〉、というグレーな対応しかできない性質の問題があることを理解してもらうことは、それもまた困難を極めることです。
あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たず。現代ではこういった要因が複雑に絡み合いすぎて途方にくれてしまうような問題が急増しています。人口の集中、過疎、気候変動、感染症、災害対策、資本主義の歪み、少子高齢化、難民問題 etc。
厄介な問題にいかにしてアプローチするか?
ここで紹介した3つの問題のタイプのうち、1)のシンプルな問題は、多くの人が個人で対処できる問題です。やるかやらないか、だけです。しかし、2)の複雑な問題になると、変数が増えて個人では解けなくなります。問題を共有する人々が手を組んで、ともに協力していく必要性が生まれます。そして最後の、3)厄介な問題に至っては、解決しようにも何をもって解になるのかまで不明瞭です。一般的な問題解決の考え方では手に負えません。したがってまず必要とされることは、お互いが納得し、承認しあえる落としどころを探ることになります。自分たちは「どうしたいか」という意思をそれぞれが醸成し、社会的な合意をつくるしかありませんし、その困難に立ち向かっていかなければなりません。
地球上のあちこちに厄介な問題が浮上している現代は、さまざまな意味で私たち人類の想像力や行動力、総合的な知恵が試されている状況にあると言えるでしょう。コ・デザインのアプローチは、こういった問題に対処するための可能性の一つと言えます。絶対的な解決案は無いとしても、立ち向かうことすらできないわけではありません。問題に介入し、その厄介さの性質を理解した上で、関係する人々が知識や経験、創造性を持って集約し、トライアンドエラーの中で納得解を探索して行くことはきっとできるはずです。
人々の「かかわり方」からとらえてみる
次に「かかわり方」の視点です。コ・デザインは、誰かと誰かが協働すれば万事オーケーというものではありません。デザインのプロジェクトにおける人々の関わり方には、さまざまなレベルが想定されます。アーンスタインは市民の力という観点から、住民参加の形態を8段階に整理しました。
半世紀ほど前の、1969年の記事で行われた分類ですが、そのまま今にも通じるクリアな整理です。皮肉めいた「1)セラピー」や「2)あやつり」は論外としても、「3)懐柔」、「4)意見聴取」、「5)お知らせ」などの「名目のための住民参加」は今でもよく見られます。いわゆる「参加型」は、この段階のレベルの形骸的な参加のことを漠然とイメージしている人も多いかもしれません。しかし、この一段階上の「6)パートナーシップ」「7)委任されたパワー」「8)住民によるコントロール」にあたる「住民の力が活かされた住民参加」こそが、要するに「協働」の領域で、受身的な態度から能動的な態度への転換があるのは明らかです。コ・デザインにおいても、このレベルの関わり方を探らなければ、名目的な活動となって終わってしまうでしょう。
そのためには、人々が関与できる権限について考えなければなりません。住民や実際の利用者が決める権利を持つこと、それと同時に、人々の側も自覚することが重要です。このような、個人や集団が自らの生活を自分でコントロールしている感覚を獲得し、周囲を変えるように働きかけていくことを、「エンパワーメント(empowerment)」と言います。抑圧されがちな人々が潜在的な力を発揮できる、公平な社会をつくろうとする合意がまず必要になるわけです。
つまり、コ・デザインが世界各国で活発に取り組まれるのは、決め事に関わるという権利をどう保持するかという、「政治的」な意味もあるのです。特に南半球にあるアフリカ、南米、オーストラリアなど、欧米との力関係による複雑な歴史を持つ国々の取り組みには、その点を強調する傾向があります。日本の場合は「政治的」と言うと、多くの人が距離を感じてしまうでしょう。政治は私たちの生活の場と縁遠い議会の中で、選ばれた人同士の忖度によって行われているものとして受け止めてしまいがちです。
しかし、利害がぶつかるところには、基本的にどこでも政治は発生します。デザインにつながる示唆的な事例を見てみましょう。地方自治体がつくる「おみやげ」の公式パンフレットです。特産品を紹介するパンフレットはどこでも自分たちの街で作っており、特に珍しいものではありません。しかし、見栄えを整える前に、そこに掲載する商品はいったいどんな基準で選ばれるのでしょうか。作る側の目線で言えば、長年地域経済に尽力してきた老舗企業や、多額の広告費を支払うような会社の商品が優先されることになります。けれども実際に商品を買う人が参考にしたい基準はなにかというと、地元の人たちが本当に支持している商品でしょう。買う前に「地元民のおすすめを聞く」という方法を取る人は実際に多いはずです。実際、パンフレットは編集の段階でそれに割かれるスペースと掲載情報を巡って、さまざまな権力による内部事情のバトルが繰り広げられるものです。
ここに「公式」とは一体何かについての対立構造が生まれ、それを決めるための利害を調整する行為──すなわち政治──が必要になります。神奈川県の小田原市は、こういった着眼点から、市民による完全他薦方式でチョイスされたパンフレットをつくる事業、「小田原セレクション」を行いました。有用な情報を必要としている観光客にとって真に役立つものにするために、長年商品をよく知っている地元民の目線を取り入れてデザインするという、公式のものとしては「ありそうでなかった」取り組みです。小さな、といっては何ですが私たちに馴染みのあるおみやげ情報すらそうなのですから、もっと複雑な課題におけるデザインに政治性の問題が発生するのは、いうまでもないことです。
市民とは、学んで「成る」もの
本当の意味での協働を実現していくことは、それなりに困難です。住民参加の例で言えば、面倒なことを避けてなるべく計画通りに進めたい自治体側に、なるべく関わりたくない受け身で消極的な市民の側。そんな構図が容易に想像できてしまいますが、それは「ことなかれ」をよしとする日本の社会が共犯的に作り上げてきた面もあるのでしょう。しかし、厄介な問題があふれる今の時代に持続的に対処していくためには、コミュニティの中に主体性を育てる仕組みを持つ必要がありそうです。
英国の国家カリキュラム(日本で言う学習指導要領)の「デザイン&テクノロジー」という科目の学習の目的の項目には、「児童たちは、機知に富み、イノベーティブで、進取的かつ有能な市民になるために、いかにリスクを冒すかの方法を学ぶ」という一文があります。「市民になるために」と、はっきり書かれています。市民という権利は、住民票と連動して自動的に与えられるわけでなく、学んで「成る」ものだ。こういった強い意志を感じさせる観点は、日本ではほとんど見かけません。コ・デザインは、ものごとに自分から関与していくことで、主体的な態度を育成するためのひとつの機会ともなるでしょう。
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ライター:上平 崇仁
専修⼤学ネットワーク情報学部教授。グラフィックデザイナーを経て、2000年から情報デザインの教育・研究に従事。近年は社会性への視点を強め、デザイナーだけでは⼿に負えない複雑な問題や厄介な問題に対して、⼈々の相互作⽤を活かして⽴ち向かっていくためのCoDesign(協働のデザイン)の仕組みや理論について探求している。15-16年にはコペンハーゲンIT⼤学客員研究員として、北欧の参加型デザインの調査研究に従事。冬頃にCoDesignに関する書籍(単著/NTT 出版)を上梓予定。