「計画し、できたものを世に放つ」ではなく、あらゆる物事との“かかわりあい”としてのデザイン──上平崇仁さんとコ・デザインの可能性を探る
「計画し、できたものを世に放つ」ではなく、あらゆる物事との“かかわりあい”としてのデザイン──上平崇仁さんとコ・デザインの可能性を探る

「計画し、できたものを世に放つ」ではなく、あらゆる物事との“かかわりあい”としてのデザイン──上平崇仁さんとコ・デザインの可能性を探る

2021.03.08/17

20世紀ごろまでは、「デザイン」といえば広告やファッション、工業製品といった領域が花形でした。しかし、昨今は経営、政策、自治体、医療、教育など、これまでデザインとかかわりが薄かった領域においても、かつてないほどデザインへの期待が寄せられています。

そうした背景もあり少しずつ注目が集まりつつあるのが、デザイナーや専門家など限られた領域の人だけでなく、実際の利用者や利害関係者とプロジェクトのなかで積極的にかかわりながらデザインしていく「コ・デザイン」という概念です。

ミミクリデザインの瀧知惠美と小田裕和が主催する、CULTIBASE Lab会員向けの「デザインゼミ」。新年1回目は、2020年12月に刊行された『コ・デザイン ──デザインすることをみんなの手に』の著者で、CULTIBASEでも特集「コ・デザインをめぐる問いかけ」を連載中の専修⼤学ネットワーク情報学部教授︎・上平崇仁さんをゲストにお迎えし、デザインをめぐる探究的な対話を行いました。

テーマは「そこにあること」から始まるデザイン。デザインは、非デザイナーも気軽に楽しんで取り組むことができるものであり、そして私たちが思う以上に、生活や周囲の人たちとのかかわりに大きな影響を与えています。限られた視界の中で計画して、できたものを世に放つのではない、あらゆる物事との「かかわりあい」としてのデザインとは?

ゲスト上平崇仁
専修⼤学ネットワーク情報学部教授。グラフィックデザイナーを経て、2000年から情報デザインの教育・研究に従事。近年は社会性への視点を強め、デザイナーだけでは⼿に負えない複雑な問題や厄介な問題に対して、⼈々の相互作⽤を活かして⽴ち向かっていくためのCoDesign(協働のデザイン)の仕組みや理論について探求している。15-16年にはコペンハーゲンIT⼤学客員研究員として、北欧の参加型デザインの調査研究に従事。


思考ではなく「行為」を先立たせる。「おいてみること」から始めるデザイン

上平:「そこにあること」から始まるデザインを考えるにあたって、まず「おいてみること」について考えてみましょう。2020年秋、大学の授業で「皿をつくる」という課題を出しました。オンライン授業なので、家にあるもので取り組める課題となっています。是非みなさんも考えてみてください。

上平:「皿」と言えればなんでもかまいません。何も言わないと学生たちはすぐにウェブで検索してしまうので、授業では「絶対検索しないこと」を念押ししました。この授業は、エンジニアリングやデータ分析などを専攻する学生を対象としたクラスです。彼らはデザインに関してまったくの初学者なのですが、なかには3Dプリンターでつくったオセロ板のような皿など、さまざまな発想が出てきました。

上平:実はこの課題、「どんな皿をつくるか?」ではなく、「どんな順番でつくるか?」が主題なんです。

学校で習う論理的思考の基本形は、まず教えられることで「わかって」、「やって」みて、できたものを「みる」という順番です。しかしデザインやアートはまず「やって」、「みて」、振り返って考えて「わかる」という順番。行為が先立つ点で、論理的思考とは異なります。この課題は、最初にアイデアを考えてしまうと解けないんです。最初に皿にたべものを「おいて」みることでイメージが湧いてくるものです。

上平:皿をつくる思考プロセスを図にすると、上のようになります。まず「たべもの」を「おく」。そこから何かしらを「みいだす」。すると、「皿を変えてみよう」という気持ちになる。すると今度は、「違う食べ物をのせてみてもいいかもしれない」と「求める」ようになってのせてみると、また別のなにかを「みいだす」ことになる。まず何らかの「図と地」をつくることで、そこからまた別の「図と地」が生み出されていき、「おく→みいだす→求める→みいだす」のサイクルが並列的に回りはじめるんです。

小田:「皿ってなんだっけ?」と考えはじめるのではなく、まず「おいて」みて、そこで見えてきたことを活かして、さらに別の関係性をつくり出していくと。それをひたすら繰り返すということですね。

上平:そう。ちなみにこの課題はいわゆる問題解決型でないので「何をやったらいいのかわからない」という学生もたくさんいました。でも、上で紹介したようなユニークな作品を出す学生たちに聞いてみると、みんな最初に「おいて」いるんですよ。「おいて」みてから考えて、何度もやり直しながら、面白いことを見出していく。

小田:僕らもワークショップを行う際は、まずポストイットをはじめ、何らかのかたちで書いてもらうことを大事にしています。うまくいかない時は「何をポストイットに書くか?」「良いアイデアをポストイットに書くには?」などと何を書くかを考え込んでしまっていいることが多い気がします。

上平:そう。下の図のように論理的思考は、どうしても一方通行になりがちですよね。思考が先立ってしまう。

小田:アイデアが生まれるプロセスは非線形とよく言われます。順序立てていけば、いいアイデアが生まれるかいうと、多分そんなことは全然なくて。まず自分なりにやってみることは、すごく大事ですよね。

上平:まさにその通りです。いきなりアイデアを考えつける人は多くないと思いますが、「おく」ことなら誰でもできるはず。この課題は、何はともあれ「おいて」みよう、というメッセージなんです。

小田:ポストイットでアイデアを出すときも、まず「おいて」しまうくらいの感覚でいいということですよね。「そこにある」状態をつくることからスタートすると。

始まりも終わりもない。あらゆる物事との「かかわりあい」としてのデザイン

上平:ここまでの「おいてみること」から始めるデザインについての議論を踏まえ、「そこにあること」からはじまるデザインについて考えてみましょう。

デザインについてはさまざまな見方があるので、まずはデザインの定義について、インドに伝わる仏教説話、エツィオ・マンズィーニ、有元典文先生、スティーブ・ジョブズの考え方を見ていきましょう。

上平:「群盲、象を評す」。インドに古くから伝わっている寓話です。絵では、目の見えない人々が象をなでて「象とは何か」について語り合っています。「牙を持った生き物だ」「爪がある」など、部分についての言及ばかりなされるわけです。

ちょっと差別的な表現に聞こえるかもしれませんが、ここでいう「盲」というのは目が見えないことではなく、「悟りを開いていない」という意味合いで、人々が仏の真理をなかなか正しく知りえないことを表したものです。視野が狭いと全体像がつかめない、ということが教訓として導かれます。僕らはどうしても、自分の視野から見えたものこそが真実だと解釈し、その違いを巡って対立しがちです。「デザインとは何か」についても様々な見方があっていいはずで、一義的に捉えてはいけないと常々思っています。

上平:デザイン理論家のエツィオ・マンズィーニは「デザインとは、何かしら人間にとって望ましいことをしていくこと」と定義しています。普通はそんな風にあるべき“思想”を含めて考えますよね。でも、教育心理学者の有元典文先生・岡部大介先生は思想を抜いて、「デザインとは、対象に異なる秩序を与えることである」とニュートラルな言い方で定義しています。

上平:そして有名な言葉ですが、スティーブ・ジョブズは、「Design is how it works(デザインとは、それがいかに「はたらく」かだ)」だと言っています。人間がつくる行為というよりも、つくったモノそれ自体が持つ力に焦点を当てていますね。

上平:では、彼が世に放ったiPhoneはどんな「はたらき」をしているのでしょう。『THE ONE DEVICE(ザ・ワン・デバイス)』というiPhoneの開発秘話が書かれた本を読んでみると、開発者たちがみな、後悔している点があることが書かれています。恋人同士が食事の間も会話せずに画面を見ているなど、iPhoneがユーザーにマイナスのはたらきかけも行ってしまうことに、彼らはあとから気がついたのです。

上平:デザイナーは、ユーザーのエクスペリエンスを完全にコントロールすることはできないのです。スマートフォンとSNS、まな板と包丁、プリンターとシュレッダーなど、物事は行為の中で何かしら結びつきを持つものであって、デザイン(されたもの)は単体では完結しません。デザイナーの手から離れた先で、我々一人一人が何かしらの工夫やはたらきかけをしながら、関係性をつくっていきます。

上平:先ほどのポストイットの話にもつながるのですが、僕らはデザインする時に、ついつい前もって思考することから始めがちなんですよね。自分たちの限られた視界の中でプラン(計画)していると、加工する前の原材料がいったいどこからやって来たのか、そして世に放ったものがどんな風に消えていくのかについて、なかなか想像することはできません。

上図左側の「プラン」の中で進められるデザインのプロセスに対して、「そこにある」ことがどのようにはたらいているのかを示したのが、右側の「縁起」的なプロセスです。ここで言う「縁起」は仏教用語で、「あらゆる現象は、さまざまな物が関係しあって成り立っているものであって、その因と縁なしに結果だけがただ単体で存在するものではない」とする考え方です。この考え方が重いのは、人間が自分の意思をもって「している」だけでなく、周囲から「させられてしまう」ことが含まれてしまうからです。

ユヴァル・ノア・ハラリが『サピエンス全史』で「小麦、稲、ジャガイモなどに、人間が家畜化されたのだ」と書いていますが、小麦によって人間の行動が変えられている点は、縁起的と言えるかもしれません。

小田:ケヴィン・ケリーの『テクニウム』でも似たようなことが語られています。人間が道具を作ってきたというより、道具側が人間を進化させたと捉える議論です。人間がiPhoneをデザインして何か新しいことをできるようになった、というより、iPhoneによって人間は何かをさせられる存在になった。こうした考え方も知ったうえで、デザインしていかないといけない。

ちなみにここまでの話を、UXデザインを主な専門とする瀧さんはどう捉えていますか?UXデザインでは、ペルソナやカスタマージャーニーなどを先に定義したうえで、望ましい状況をかたちづくっていきます。一見すると「そこにあること」の考え方と矛盾があるように感じます。

:UXデザインも、上図のプロセスと同じだと思います。デザイナーの視点が強くなりすぎないように、使い手の視点を想像しながらデザインするのですが、想像には限界があります。だからこそ実際につくって、利用してみてもらい、それを見てまた考え直すことを繰り返さないといけない。

デザインしたものが世に出て、何と繋がって、何が生まれてくるのか。実際に見てみないとわからないことは、本当に多いです。

上平:なるほど、UXデザインもプランではないと捉えられているのですね。はじめは「よかれと思った」ことでも、デザインされた人工物と人工物が結びついてどんどん当初のねらいではなかった力を強めていく現状では、前もって設計することの限界はあります。それが今、「存在論的デザイン(*)」で提言されていることなんでしょうね。

*存在論的デザイン:私たちの生の活動は何かをデザインすると同時に、その結果生み出された人工物によってデザインされるという、常に循環し相互に作用する関係にあるとする考え方。

変化したあとの結果も含めて「デザイン」と呼ぶ

上平:ここまでの議論を踏まえ、「耕す」とはどういうことか考えていきましょう。「耕す」は英語でcultivate。ミミクリデザインさんのビジョン「創造性の土壌を耕す(CULTIVATE THE CREATIVITY)」にも含まれていますね。この単語、他動詞なんです。「そこにある」何かに対して働きかける言葉。careも同じですね。

小田:確かにcareという単語・動作も、それ単体だと何も発揮しないですよね。そこに何かがあって初めて、careするという行為が生まれる。

上平:「耕す」を考えるにあたって、コンポストについてご紹介したいと思います。コンポストとは、微生物の力を借りて生ゴミを分解・堆肥化することです。私の研究室の学生が実際に自分の手でコンポストをつくり、観察日記をはじめました。

最初は「汚い物」に見えていた生ゴミが、微生物の存在を知ると、だんだん微生物たちのご飯に見えてくる。観察日記には「土や微生物に対してだけではなく、全てのものに最後の最後まで愛着が持てるようになった」など記されており、ピュアな喜びを感じるようになっていることがわかります。ある日の観察日記には「湯気が出るところを見たい」と書かれているのですが、実際に出たんですよ。40度以上まで、温度が上がるらしいです。

上平:「ほうれん草の間引き」を行った際は、「土のみ」と「土+コンポスト堆肥」で、明らかに根と土が絡み合う様子が違っていたと記されています。微生物が、いかに生き物の形自体も変えていっているかがわかります。

彼女は毎日さまざまな世話をすることで愛着が生まれ、コンポストを最終的にペットとして感じるようになっていきます。そして、微生物が存在することによって明らかに家族との会話が増えたそう。それを図にしてみると、コンポストは単体で存在しているように見えて、さまざまなものとつながって成り立っていることが分かります。

上平:このように、「耕す」とは、ただ単に土を混ぜるというだけのことではありません。豊かな土壌、適切な気温、日照といった気象条件の中で、野菜は生きています。畑に肥料をまくのは、直接野菜にご飯をあげるのではなく、土の中の微生物を元気にし、彼らの仕事を手助けするためです。

「耕す」ということは、周りのかかわりあいを取りまとめ、方向付けをしていくことです。さまざまな物の因果関係が存在する、まさに縁起的なものと言えます。

小田:いまのお話を聞いて、「耕す」ことは、変化していくプロセス自体を楽しむことを前提としていると感じました。デザイナーがデザインしたものが世の中に出て、何らかの影響を与えるとします。想定と全然違う反応がきたとしても、それに対して新たに何ができるのかを考え続ける姿勢も必要です。もっと言うと、利用者・生活者の解釈も、変化し続けています。

だから、「前回はうまくいったけど、今回はうまくいかなかった」といった事象は、絶対に起きると思うんです。それにもかかわらず、なぜか「こうやったらうまくいく」と再現性のあるものとしてまとめがちです。

上平:その通りですね。

小田:そこに存在する利用者・生活者がどのように意味づけするかで、デザインのあり方は大きく変わります。だから、どのように解釈されるかも考慮すべきで、さらに言うと、利用者・生活者が使う状態・解釈する状態を良くしていかないといけない。でも、その状態をデザイナー自身が完全にコントロールすることはできない。

上平:デザイナーだけではなく、だれもが幅広い見方をする余裕や鷹揚さを持つかも大切だと思います。再びコンポストにたとえると、土をただの土だと思うと、何も生まれません。でも、土をペットだと思えるレベルには、人間は変わることができるんですよね。

小田:いま、参加者の方からコメントをいただきました。「変化したあとの結果を含めてデザインと呼ぶのかなと」。

上平:そう思います。ただ、ある時点の結果もいつのまにか何かの起点になるのでしょうね。さっきのインドの象の話で言うと、自分たちが想像するより、きっと象はもっと大きいはずです。

小田:全体像が見えることはないということですね。そう考えると、「デザイン」は本当にとんでもないことをしている。また、「どのような見立てを持ち続けているか」は、デザインする側にとっても、される側にとっても大事かもしれません。

:みんなそれぞれ視点が違いますよね。他の人がどういった視点で見ているのか、自分の視点以外で捉えることを楽しめることも大切です。

小田:デザイナーではないけれど、デザイナー的な物事の楽しみ方をしている人は世の中にたくさんいると思っています。彼らは、説明書を見てその通りプロダクトを使うことをあまり面白いと思っていない節がある気がします。常に「こうやったらどうなるんだろう」と見立てをつくることを楽しんでいるというか。

その見立てによって、デザインされたものも変化していくデザイナー自身も、それを面白がる。そういった状態が、本質的に一番理想的な、デザインの関係性なのかもしれないですね。

IDEOの創業者であるトム・ケリーが著書『Creative Confidence』の中で「自分の創造力に自信を持つこと」を提唱していますが、その話にもつながる気がしました。デザイナーは、やってみたことがうまくいかなかったとしても、それを受け止めて、社会と対話しながらデザインし続けないといけない。デザインすることは怖いけれど、始める勇気と受け止める勇気を持たないと、何も始まりません。

:クリエイティブ・コンフィデンスの話を捉えるときに、単純に「自分の創造性に自信を持ちましょう」と言われても、人はそう簡単にマインドチェンジできないし、すぐ自信をもつのも難しかったりしますよね。まずは、自分と異なる他者の考え方に興味を持って、一旦受け入れてみることから始めるのもありだと思います。他者の視点で見てみると新たな「見立て」が見えてきて、変化を楽しむ体験につながっていくと思います。

上平:まさにそうですね。見方を切り替えることに、「自覚的」になること。自分は切り替えられるんだと、ある意味自信につながるかもしれません。

上図の絵を見てみてください。よく知られている多義図形ですが、ウサギを見えるときにアヒルが消え、アヒルが見えるときにウサギが消えるんです。本当はどちらも同時にありうるはずなのに、わたしたちの脳の特質で見えなくなってしまうんですね。現実世界もこの図のようなものだと思います。消されてしまっているものに対して見方を切り替えられるような感覚を働かせることが大事だと思います。

小田:もっと言うと、人間は見方を切り替える能力を持っていると信じて、デザインしないといけない。「こういった人たちばかりだから」と決めつけてデザインすることで、デザインの可能性を失ってしまうことがあります。

デザインにおいては「わからなさ」を楽しむことが大切

小田:今日の回は、これまでのデザインゼミの中でも、一番難しかったかもしれません。わかったこともあるだろうし、わからなくなったこともあるかもしれません。でも、それ自体がものすごく大事で、常に興味を持ち続けることが、デザインにおいては大切です。

上平:そうですね。また、ものさしは一つしかないわけではありません。今日話したこともまたひとつの見方に過ぎないので、「上平はそう言った」くらいに受け止めてほしいです。

小田:違った考え方を楽しむことが大事ですよね。ドイツ出身の米国のコミュニケーション学者であるクラウス・クリッペンドルフは、「デザインとは物の意味を与えることである」といっています。意味を与えることは、デザイナーでなくともできます。そういう意味で、デザインはみんながしている。クリッペンドルフは、コ・デザインの話をしてたんだなと思いました。

今日のわからなさを持ったまま、上平先生の『コ・デザイン ──-デザインすることをみんなの手に』を読んでいただけると、また新たな発見があるかもしれません。

■主宰者プロフィール
瀧 知惠美
株式会社ミミクリデザインDirector / Experience Designer。多摩美術大学情報デザイン学科卒業。東京藝術大学デザイン科修士課程修了。多摩美術大学非常勤講師。ヤフー株式会社にて複数サービスのUXデザインを担当し、所属部署でUXデザインチームのマネージャーを務める。UXデザイン推進活動としてワークショップ型の研修やUX導入の実務支援を行い、組織へ浸透させるための、ふり返りの対話の場づくりの実践および研究を行う。ミミクリデザインでは、よりよいユーザー体験につながるモノ・コトを生み出すために、つくり手の体験も重要と考え、事業開発と組織開発の組み合わせ方を実践と研究の両軸を重視しながら探求している。

小田 裕和
株式会社ミミクリデザインManager / Design Researcher。千葉工業大学大学院工学研究科博士課程修了。 博士(工学)。千葉県出身。新たな価値を創り出すための、意味のイノベーションやデザイン思考といったデザインの方法論や、そのための教育と実践のあり方について研究を行なっている。ミミクリデザインでは、新たな意味をもたらすための商品開発プロジェクトや、主体的に価値創造に取り組む人材の育成プロジェクトを中心にディレクションやファシリテーションを担当している。

執筆:佐藤まり子
編集:小池真幸

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