リフレクションは〈誰〉がするのか? わたしたちの中に存在する「2つの自己」にまつわる問い:上平崇仁による連載『「計画」を超えて』第2回

リフレクションは〈誰〉がするのか? わたしたちの中に存在する「2つの自己」にまつわる問い:上平崇仁による連載『「計画」を超えて』第2回

上平 崇仁

2021.08.05/ 11min read

「事前に計画すること」は、わたしたちのいま・この瞬間に焦点をあわせる感覚を弱体化しているのではないか? そんな問いを起点として「計画」に対抗して生きるための知を探索していく、上平崇仁さんによる本連載。その第2回では、行動経済学者ダニエル・カーネマンの「経験の自己(Experiencing Self)」と「記憶の自己(Remembering Self)」という2つの自己像を立脚点として、「リフレクション」の際に立ち現れる自己について考えます。


現在、ビジネスの場でも教育の場でも支配的な考え方となっている、ものごとを「事前に計画すること」。しかしながら、すべてが前のめりに準備され、プロセス化が進んでいくと、いま・この瞬間にしかないライブな感覚は軽んじられ、周囲にあった余白も消えていきます。そんな風潮が強まる中で、わたしたち生活者は、いかにそれらに「対抗」して生きることができるか。そのポイントをさまざまな領域の知を借りて探ってみよう、とするのが本連載の主旨です。

連載の初回では、問題意識の見取り図を示しました。第2回では「リフレクション」をテーマに考えてみたいと思います。よく知られている概念ですが、違う視点から見てみると、ここにも計画とは相れないものが浮かび上がってきます。

目次
リフレクションする主体は誰?
わたしたちの中に存在するふたつの自己
二つの自己を衝突させてみると……?
どちらの自己がリフレクションするのか
感じることの復権

リフレクションする主体は誰?

リフレクションは、日本語では〈省察(せいさつ)〉と訳されています。ごく手短に言えば自分たちの行為を振り返り、見直して、よりよく変えていこうと試みることです。省察する機会を意識的に確保することは近年まであまり行われていませんでしたが、いまでは組織風土づくりや学習共同体づくりなどにおいて、欠かせない取り組みになっていると言えるでしょう。

では、このリフレクション、いったい「誰」が主体となって行うことなのでしょうか。そんなの当たり前じゃないか、「リフレクションするその人」以外に答えはないだろう。そう思った方、ちょっと待ってください。実はそう単純でもないのです。

わたしたちの中に存在するふたつの自己

一人の人間の中でも、ものごとを解釈する視座は一つとは限りません。行動経済学者のダニエル・カーネマンは、わたしたち一人ひとりの中には、まったく別の「経験の自己(Experiencing Self)」と「記憶の自己(Remembering Self)」が存在すると言います[1]。

まず、「経験の自己」は、まさしくいま・この瞬間に存在する自己です。この自己は、身体的な痛みや心地よさは、その時その時に現在形として生起するものですが、それを感じている主体と言えるでしょう。外からの刺激と内側で起こる反応のあいだで刻々と相互作用し続けています。

心理的な意味での「現在」はおよそ3秒程度の長さだと言われます[2]。例えば、ある日に8時間働いたとすると、その中でおよそ1万回(1分に20回✕60分✕8)にものぼる膨大な“いま”を、逐一切れ目なく経験していることになります。それらのほとんどは痕跡を残すこともなく、シャボン玉のように弾けて次の瞬間には消えていきます。

そして、もうひとつの「記憶の自己」は、それらの総体として人生を生きている自己です。わたしたちは、連続する経験そのものではなく、事後的に再構成された記憶をストーリーに変え、他者に語ります。記憶する自己は、できごとの中の決定的な瞬間や結末などに重み付けを行い、意思決定して実際の行動を選びます。その支配力は強く、未来のことを考える時でさえ記憶からは逃れにくいようです。

「経験する自己には発言権がない。だから記憶する自己はときに間違いを犯すが、しかし経験したことを記録し取捨選択して意思決定を行う唯一の存在である。 よって、過去から学んだ事は将来の記憶の質を最大限に高めるために使われ、必ずしも将来の経験の質を高めるとは限らない。記憶する自己は独裁者である」[3]

―ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?下巻 』早川書房 『ファスト&スロー』下巻  P268

二つの自己を衝突させてみると……?

自分の意識の中にも、いくつかの視座(パースペクティブ)が存在していることは、なんとなくイメージできるのではないでしょうか。この二つの自己は、二重人格のようにはっきり分かれているわけではなく、それぞれの人の頭の中でぶつかり合ったり、調整しあったりしているようです。カーネマンは、自分の中にある二つの自己の態度を観察できるとする、ささやかな思考実験を編み出しています。それは、以下のように問います。

「あなたは、ある旅行に格安で招待されました。しかし条件があります。その旅の終わりに、撮影した写真・ビデオ等のデータは全て破棄され、さらに記憶も消されてしまうとします。それが事前にわかっている場合、あなたはその旅に行きますか?、それとも行きませんか?」(前掲書 P281の原文を筆者が短く改変)

読者のみなさんはどちらを選ぶでしょうか。カーネマンは「ちゃんと調査していない」と書いていたので、私は興味を持ち、1年生の授業の際に学生たちに聞いてみました。回答を一部抜粋して掲載します。

図1:アンケートの回答(一部)

結果、53名中8名が「行く」派で、45名が「行かない」派となりました。ある人は、十分に意味があると考え、ある人は、行く意味は見いだせないと考えます。サンプルの一番下の回答に見えるように、この短い質問から人生そのものの構造との類似を見抜いた学生もいました。他の機会にも聞いてみましたが、ほぼ似たような比率でしたので、日本人の若者では「行かない」を選ぶ傾向がつよい、程度のことは言えそうです)。

しかし、これを決めているのが記憶の自己だとすると、いろんな疑問が生まれます。旅先で熱心に写真を取る人はたくさんいますが、日々積もっていく膨大な写真をそんなに頻繁に見返しているのでしょうか。どちらかと言えばカメラロールを眺めることよりも、新しい経験をすることのほうに多く時間を使っているのが実情のように思えます。そうでありながらも、旅先で美味しいものを食べたり、ストレスから開放された心地よい時間を過ごしたりする、そんなリアルな経験をすることそのものに多くの人が意味を見いださない……。同じ自分自身が味わうことのはずなのに、ずいぶん冷たいものです。

つまり、(多くの人の)記憶する自己は、リアルな現実に直面しているはずの経験する自己を、まるで記憶喪失の他人のように「軽視」する(傾向がある)。この思考実験によると、そうなります。カーネマンが明らかにしたのは、人間とは、それまでの経済学が前提としてきたようなモデルとはまったく異なっており、実に不合理な判断をするものだ、ということでした。以上は行動経済学から広まった知見としてご存知の方も多いと思います。

どちらの自己がリフレクションするのか

冒頭のリフレクションの話に戻します。この異なる分野のセオリーを重ねて考えてみましょう。さて、リフレクションするのは、「二つの自己」のうち、どちらでしょうか? 

素朴に考えれば、リフレクションするのは「記憶の自己」です。経験を振り返る、というとき、時制的に過去のことを扱うことが多くなりますし、行為に意味づけして次の行動を変えていくことは、記憶と強い関係があると言えます。

しかし、カーネマンが述べたように「記憶の自己」は、経験を軽視する“独裁者”でした。振り返ることによって定着したとしても、そこに山ほど不合理な判断が入り込んでいることは想像に難くありません。したがって、すべて記憶だけで構成されたリフレクションが深まるのかについては、疑いの目を持ったほうがよいでしょう。

そこからもう一歩踏み込むと、記憶だけでは語れない要素が見えてきます。というのも、もともとのドナルド・ショーンが「省察的実践者」という概念で強調したのは、その場の状況の中で発揮されるような、“しなやかな知”のありかたでした。

実践の現場の中では、教科書に書かれている知識の通りには行かないような想定外の出来事や、矛盾する出来事の連続です。その葛藤の中に身を置き、まずやってみて「感じ」を確かめたり、どうもぴったりこないなどの感覚を元にその原因を探りながら、とっさの判断で切り抜け、その場の局面を変えていく。そうした知が「行為の中の省察(リフレクション・イン・アクション)」です。

〈行為の現在〉、行為が持続的に展開している時間は、状況によって異なる。それは、状況に対して働きかけてまだそこに変化を起こす可能性が残されている状態、それが続く限りの持続的な時間が〈行為の現在〉である。 そうした〈行為の現在〉、私たちが何かを行っている間に私たちの思考は、その行っていることについて、それを別な形に作り替えると言う働きをしている。 このような行為のただなかで進められる、状況を変化させる思考を、私は〈行為の中の省察(Refrection in Action)〉と呼ぶこととしたい。

―ドナルド・A・ショーン『省察的実践者の教育―プロフェッショナルスクールの実践と理論』柳沢昌一・村田晶子訳、鳳書房 2017 (P40) 傍線は引用者 [4]

リフレクションは、しばしば事後的にするものとみなされがちですが、ショーンが膨大な文字数を用いて論じたのは、状況に埋め込まれた「行為の中(in)」において、形骸化しがちな原理原則を棄てつつ柔軟に対応していくことの重要性でした。そして注意したいこととして、そのトリガーとなるのは、予期せぬ状況に直面した際の「驚き」だとしています[5]。この驚きの感覚を感じ取るのは、記憶ではなく「経験の自己」に他なりません。さらにいえば、驚きは予期できないからこそ生起するものであって、すなわち事前に計画できるものとは真逆です。

感じることの復権

これらの知見をふまえると、リフレクションと一言で言っても、どうやら複数の視座によって為されるものと考えたほうが良さそうです。記憶から行動をつくりかえていくだけでなく、経験の中で違和感を検知することも不可欠です。そこで、優先されがちな「記憶の自己」に「経験の自己」をどう介入させるか、いわば、独裁者の圧政に対して民衆の側が「負けない」ようなせめぎあいをつくりだすことが重要だと言えそうです。

見方を変えれば、それは両者の〈協働〉と言えるかもしれません。つまり深いリフレクションを導くためには、それぞれの特徴を考慮した環境が必要なのです。これを図にすると以下のようになります(図2)。

図2:2つの自己を考慮して「リフレクション」を捉え直す

こうした観点は、デザインの方法論にも見つけることができます。例えば、千葉工大安藤研究室による「エクスペリエンスフィードバック評価法」(図3)[6]は、ビデオで過去の行動を見ながら同時に感情曲線を描いていくというUXの評価手法です。都合よく歪められがちな記憶に対して、経験の自己を呼び出して前景化する工夫が行われています。

図3:エクスペリエンス・フィードバック評価法

合理的な社会では、しばしば言葉になる以前の原初的な感覚は抑圧されがちです。世界と自分のかかわりかたを決めてしまうからこそ、自分の認識を歪めているバイアスや不合理さについて知り、その場で実際に「感じること」を復権[7]させることは大事です。一方向だけでなく、意識的に多角的な視座をつくりだして吟味するのが、本当のリフレクションの意義なのでしょう。

それを知ったとき、わたしたちは、身体とともに、いま・この瞬間に呼吸をしつづけている「経験する自己」を、もっと意識的に気遣ってあげなくてはならないのではないでしょうか。たとえ、なにもかも消え去ってしまう儚いものだとしても。

[1]ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー―あなたの意思はどのように決まるか?下巻 』早川書房  2014 P261, カーネマンによるTEDのプレゼン「経験と記憶の謎」も参照  https://www.ted.com/talks/daniel_kahneman_the_riddle_of_experience_vs_memory?language=ja
[2]エルンスト・ペッペル『意識の中の時間』田山忠行・尾形敬次訳、岩波書店、1995
[3]前掲書 P268
[4]ドナルド・A・ショーン『省察的実践者の教育―プロフェッショナルスクールの実践と理論』柳沢昌一・村田晶子訳、鳳書房 2017 P40
[5]前掲書 P40
[6]安藤昌也, 田中一丸, “エクスペリエンスフィードバック評価法の提案”, 人間中心設計推進機構・機構誌, 8 (1), 9 (1)合併号, pp50-53, 人間中心設計推進機構
[7]ネットワーク編集委員会・編『リフレクション大全 (授業づくりネットワーク No. 31)』,学事出版,2019, P4

ライター:上平 崇仁
専修⼤学ネットワーク情報学部教授。大阪大学エスノグラフィーラボ招聘研究員。グラフィックデザイナーを経て、2000年から情報デザインの教育・研究に従事。近年は社会性への視点を強め、デザイナーだけでは⼿に負えない複雑な問題や厄介な問題に対して、⼈々の相互作⽤を活かして⽴ち向かっていくためのCoDesign(協働のデザイン)の仕組みや理論について探求している。15-16年にはコペンハーゲンIT⼤学客員研究員として、北欧の参加型デザインの調査研究に従事。単著に『コ・デザイン― デザインすることをみんなの手に』がある。

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